2015年11月20日

采配批判

 昨日行われた野球の国際大会で、日本代表が最終回に逆転負けしました。その直後から、小久保監督に対する、「采配批判」がネットで少なからず見受けられます。
 昨日の試合では、「なぜあの投手を引っ張ったのか」とか「なぜあの場面であの投手を出したのか」というのをたくさん見ました。
 また、サッカーでも日本代表が負けると必ず「采配批判」が吹き荒れます。
 別にそんなひどい成績を挙げたわけでもないのに、なぜこのような「采配批判」が起きるのか、しばらく前までは不思議でした。
 しかし、最近になって、その理由が分かりました。

 「采配批判」をしている人は、結果が分かっています。したがって、その人が行う「采配」は、小久保監督より確実に上になるわけです。
 たとえば、昨日の野球だったら、「自分だったらあそこで投手を変えた」とか「自分だったら、あそこでその投手は出さなかった」などと言えるわけです。
 これは、リアルタイムで見ている場合も同様です、観戦中にそのような不安が生じたらツイッターなどに書き込み、当たれば「やはり俺の言うとおりだった」と自慢できます。
 一方、その「自分だったら…」が外れても何ら問題はありません。何しろ、その「外れた」発言を批判する人など、まず存在しません。したがって、「なかったこと」にできるわけです。
 つまり、「采配批判」というのは、リスクがなくかつ気分が良くなるものなのです。そのため、多くの人が、この「趣味」を楽しんでいるのでしょう。
 まあ、こんな事が理解できるようになったのも比較的最近です。ちなみに、20年ほど前は、自分も、少なからぬ「采配」に対して、怒りに近い感情で「批判」していたものでした。
 そんな事を思ったり思い出したりした、「采配批判」でした。

2015年11月20日 23:09