2015年08月26日

心の闇

 ツイッターで、「子どもに対しては『わざわざ子どもに道を尋ねる奴は犯罪者と思え』と教えていいと思う。いつもいっているが本気で道を知りたい奴は子どもに尋ねたりしない。」という発言を見ました。
 まったくもってその通りだと思うと同時に、「コロンブスの卵」の話を聞いたような気分になりました。
 ところが、この発言に対する「反論」を寄せてきた人が少なからずいました。いろいろ言っているのですが、まとめると、「カーナビやスマホの地図サイトを見ても分からず、さらに詳細な住宅地図を見ても分からない時もある。そのような時、周囲に子どもしかいなければ、子どもに尋ねるよりないが、それもいけないのか?」というものでした。
 あたかも、自分の経験を語っているような感じでしたが、そのような事が、現実的にありえるのでしょうか。

 まあ、一番最初の突っ込みどころは「まわりに子どもしかいない」という状況がありえるか、という事です。
 人口の少ない地域なら、確かに街なかに人がおらず、子供だけ、という確率がゼロでないかもしれません。しかしながら、そのような時は、道にいる子どもでなく、どこかの家に入って尋ねればいいだけの話です。
 さらに言えば、子どもに道を尋ねて、目的地につける可能性があるか、というのもあります。
 自分たちが子供の頃を思い出せばすぐに解りますが、家の近くの地理の把握は「自宅・学校・公園などのよく行く場所・友達の家」という感じです。スマホやナビを使っても分からないような難解な場所を案内することなどできるわけありません。
 そのような子どもに道を尋ねても、正解を得られる可能性は極めて低いでしょう。一方で、間違った場所に案内されるというリスクは極めて高いわけです。
 つまり、現実的に考えれば、この世の中で、「子どもに道を尋ねなければ目的地に着くことができない」などという事は、100%ありえないのです。

 にも関わらず、懸命に「子どもに道を尋ねる事に妥当性がある」と主張している人がいるにに驚きました。
 しかもこれは、ツイッターでのやりとりです。仮にそれで「論破」できたとしても、「子どもに道を尋ねる」という事にお墨付きをもらえるわけではありません。
 にも関わらず、必死になって詭弁を弄している人が何人もいるわけです。そこまでして、「子どもに道を尋ねる」という行為を否定されたくないわけです。
 その「熱意」には「心の闇」を感じざるを得ませんでした。
 同時に改めて、「子どもに対しては『わざわざ子どもに道を尋ねる奴は犯罪者と思え』と教えていいと思う。いつもいっているが本気で道を知りたい奴は子どもに尋ねたりしない。」という主張が非常に正しく、全ての子ども及びその親に知ってほしい情報である、という事を痛感させられました。

2015年08月26日 23:11