2015年07月18日

反対はいけない?

 FBで「自分は戦争にも原発にも反対しない」いう題名のブログが回ってきました。
 内容は、「反対は負の感情だからよくない。よりいいもの(原発反対でなくクリーンエネルギーの利用)を提案すべきだ」みたいなものでした。
 一見もっともらしい事が書いてあるので、真に受ける人も多そうです。
 しかしながら、「原発に反対すること」と「クリーンエネルギーの普及」は、共通点はありますが、同じではありません。
 後者だと、「クリーンエネルギーの普及を推進すれば、原発を増設したり再稼働してもかまわない」となってしまいます。
 つまり、まず最初に「反対はいけない」という前提を無理やり提示し、続いて「原発に反対すること=クリーンエネルギーの普及」ではないにも関わらず、あたかもそうであるように思わせて、「原発に反対するのはよくない事だ」と思わせよう、と誘導しているわけです。

 そのブログをよく読むと、唐突に「このことは量子力学で証明されています」などと書いてあるくせに、何がどう証明されたかの注釈など一切ない事など、「だましのテクニック」が混ぜられている事が分かります。
 しかし、それらに気づかないと、ころりと騙されて、原発が嫌いであるにも関わらず、「原発反対を主張するのは良くない」と思ってしまう人もいるのだろうな、と思いました。

 このような「反対はダメ」という主張する論調の一つに「対案を出すべき」というのがあります。
 自分の記憶では、20年くらい前の新聞社説でよく見かけました。現在でも、何かあるごとに「対案」と言っている政治業者やその応援団をよく見ます。
 それらを真に受けて、やはり「ただ反対するだけでなく対案を出すべきだ」と思ってしまう人が少なからずいます。
 たとえば、先日強行採決された「戦争法案」ですが、これに対案などいりません。なぜなら、日本の一般市民にとってはこんな法案は完全に不要な上に憲法違反だからです。したがって、対案などださず「反対」でいいのです。
 もちろん、これは政治や原発に限った事ではありません。
 たとえば、人の家の前にゴミを不法投棄した人を見つけたとします。その人に対し、被害を受けた家の人が「代わりにここに捨ててくれ」などと「対案」を出す必要はありませんし、「否定的な言葉」を避けて「適切なゴミを捨てる場所を考えましょう」などと言う必要もありません。ただ「ここにゴミを捨てるな」だけでいいに決まっています。
 電車内で痴漢にあった場合も同様です。その痴漢の欲求を満たす「対案」を考える必要も、「お互いが快適に電車に乗る方法」を提案する必要もありません。「やめてください」と言って駅員に突き出せばいいだけの話です。

 いずれにせよ、他人が何か良くない事をするときは、率直に「反対」と言えばいいのです。にも関わらず、「ポジティブな提案」や「対案」が必要だと主張する人は、普通に「反対」されると損するという立場にあるだけでしかありません。
 そのように自然に考えれば、変な詭弁に騙される事もなくなるのでは、と思いました。

2015年07月18日 23:54