2012年12月18日

先が読めない人の「遺言」

 昼休みにツイッターを見ていたら、今日死んだ文化人に関する言及を見かけました。なんでも、死ぬ半月前までブログを更新していたそうです。そして、最後の頃は、自分の死亡を前提に記事を書いていた、とのことでした。
 このように書くと、自らの最期を悟り、残された力で、想いをブログに残しただろう、と普通の人は思うところでしょう。ところが、その「文化人」は想像の斜め上を行っており、ツイッターで言及した人はそれに呆れていた感じでした。
 とりあえず、直接読もうと思い、そのブログにある「最後の日記」を見ました。すると、その結びは、その言及の通りのものでした。

 その最後に更新されたブログは、葬式に来てもらいたくないという人間がいます。これをインターネットで公表していいものかどうか(ま、そんなことはしませんけどね)。この感情も含めて、感謝なのでしょうか。という言葉で結ばれていました。
 要は、自分には嫌いな人間がいる。そいつには葬式に来てもらいたくない、と言っているわけです。それが、この「文化人」がこの世に残した「最期の言葉」なわのです。
 自分だって嫌いな人間はいます。そして、その輩をけなす事はしょっちゅうあります。(一例を挙げるとこの記事になります)
 とはいえ、死期を悟った時に、このような事を書く事はありません。そんな事をする余力があるのならば、お世話になった人への感謝の言葉を先に書きます。
 ブログを読む限りでは、書いた人はこの記事が「最終回」になるとは思っていなかったようです。しかしながら、それは「この死んだ人には、先を読む能力が欠落していたからだ」の一言で片付いてしまう話です。
 死んだ人は、非常に強い将棋のプロでした。ただ、そこで鍛えた「先を読む力」は、実生活、特に人生の締めにおいては、何一つ役に立たなかった、と言わざるをえません。
 とりあえず、「最も情けない死に様の一つ」だよな、と思い、反面教師的な意味で参考になりました。
 自分もいつか死期を悟る日は来るでしょう。その時は、間違ってもこんなみっともない真似だけはしないように、と思いつつ、苦笑しました。

2012年12月18日 22:50