2009年12月01日

高木投手、引退

 千葉を戦力外になり、トライアウトで現役続行を目指していた高木晃次投手が引退を発表しました。
 1986年に阪急ブレーブスにドラフト1位で入団し、2年ほど一軍定着したものの、トレードで福岡ダイエーホークスに移籍します。しかし、そこでは全く活躍できずに29歳で戦力外通告を受けました。
 しかし、ヤクルトスワローズに入団すると、2年目に先発に定着し、13年目にして初の規定投球回数に達し、9勝を挙げるなど活躍しました。
 ところが、翌年以降は再び調子を崩し、2001年に33歳で二度目の戦力が通告を受けます。

 そして2002年に千葉に入団。最初の3年間は谷間に先発しつつ、リリーフもこなす、といった起用でした。なぜか近鉄バファローズに強く、二年連続で完封勝利を挙げています。特に2003年は10試合の登板で1勝に終わりましたが、その1勝が完封勝利という珍しい結果になっています。
 2004年にバレンタイン監督が就任した後、当初は昨年までと同様、先発とリリーフの併用みたいな形でしたが、途中からリリーフ専任となります。そして、この年の7月に黒星がついて以来、知る人ぞ知る「不敗神話」が始まります。
 2005年からはリリーフ専任となります。当時の千葉には藤田投手という、絶対的な左の中継ぎエースがいました。したがって、目立つ場面での登板は少なかったのですが、先発が早く降板した試合や、負け試合などの登板でチームに貢献します。
 この年の試合で忘れられないのは、唯一の勝利投手となった、8月5日の対合併球団戦です。先発の小野投手が危険球退場した後を受けての緊急登板で、登板直後に失点したものの、そこから好投し、打線の援護もあって白星を挙げました。
 あの試合で、降板した時の「高木コール」は今でもよく覚えています。また、自分にとってこの試合は2005年に行なわれた中で、リーグ優勝を決めた対福岡PO最終戦の次に心に残った試合でした。
 2006年以降も同様のポジションで登板を重ねますが、とにかく黒星がつきません。そして2007年には21年目にして自己最多となる43試合登板を果たします。そして、クライマックスシリーズ第2戦では、足を痛めた小林宏之投手の後を受けて緊急登板し、白星を挙げました。
 個人的な事ですが、この日は日曜で、翌朝から大阪で仕事があったため、前日入りし、大阪見物をする予定でした。しかし、高木投手の緊急登板を見てTVに見入ってしまい、見物を取りやめました。結果的にこれが一軍最後の白星だったわけで、それを思うと、ここでTVを見ていたのは正解だったと思いました。
 そして翌2008年の開幕戦では、3点リードの9回裏から登板したシコースキー投手が1死1・2塁としたところで登板し、併殺で抑えて18年ぶりのセーブを挙げました。
 この年も43試合登板し、また、不敗記録も続けました。しかし2009年になってからは調子が上がらず、8月下旬に二軍落ちしたのを最後に、一軍に上がることはありませんでした。
 そして、秋口に自身三度目の戦力外通告を受けます。20代・30代・40代でそれぞれ戦力外通告を受けた選手というのもかなり珍しいと思います。結果的にここで引退宣言をしていれば、セレモニーや、札幌最終戦における、中嶋選手との「最後の阪急対決」が実現していたのかもしれません。
 そう思うと残念ですが、結果的には失敗したとはいえ、あそこで現役続行の意思表示をしたのは、高木投手らしく、それはそれで良かったと思います。
 結局、連続無敗記録は「168」まで伸ばしました。2位が「114」であることを考えると、二度と破られない記録なのでは、と思えます。他にも、10年目で初の規定投球回数到達とか、20代で最初の戦力外通告を受けながら41歳まで現役、20年目にして初のFA権取得なども、かなりの記録でしょう。
 いずれの記録も、派手な活躍がなかった故のものであります。とはいえ、着実な努力の継続があってこその記録なわけです。そういう事も含め、自分にとっては、最も心に残る野球選手の一人でした。ぜひとも第二の人生も頑張ってほしいものです。
 そして同時に、阪急ブレーブス経験者で唯一の現役となった北海道の中嶋選手には、一年でも長く現役を続けてもらいたいと思いました。

2009年12月01日 23:57