2007年11月14日

「記録」だけで「記憶」に残る選手

[ 野球 ]

 13日未明、元西鉄ライオンズ投手稲尾和久さんが70歳で亡くなられました。
 1969年生まれの私にとって、その年に引退した稲尾投手の現役時代の活躍は知りません。また、昔の映像を見る機会もないので、投球フォームや得意な球種もよく知りません。今年、日刊スポーツ九州版に連載された鉄腕人生という記事を読んだことにより、「右投げでオーバーで投げる、速球の威力と、スライダーとシュートのキレが鋭い投手」とやっと知ったくらいです。

 とはいえ、野球の本や記事を読む事により、稲尾投手の次元の違う活躍ぶりは、子供の頃から自然と心に刻まれていました。
 その中でも、特によく見た「記録」は二つありました。一つは、1958年の日本シリーズで3連敗後4連勝で西鉄ライオンズが日本一になった時に、その4試合全てで勝利投手になったばかりか、サヨナラ本塁打まで放ち、「神様・仏様・稲尾様」という異名を得たことです。
 もう一つは、1961年に達成した404イニング登板で42勝、という今後永遠に破られそうにない記録を打ち立てた事でした。
 記録というのは凄いもので、それ自体が一つの「記憶」となります。さらに、鉄腕人生でその記録の土台となったものを知り、「鉄腕評論」において、「九州の球団」であるホークスに対する深い想いを読むことにより、今年に入って、その「記憶」はさらに強いものとなりました。

 その中でも特に印象に残ったのは、亡くなられる40日前に書かれた文章です。ホークスが勝ち試合を追いつかれながら、何とかサヨナラされずに引分けに終わったファイターズ戦について、引き分けに終わったとき、ふと昔のことを思い出した。58年の日本シリーズ。西鉄は巨人にいきなり3連敗。地元平和台で王手をかけられた。「今年はダメだなあ」という雰囲気が私たちライオンズのナインに漂っていたのだが、翌日の新聞に「まだ首の皮一枚残っている」という三原監督の談話があった。そうだ、まだ負けたわけじゃないんだと思い直した記憶がある。運よく西鉄は4連勝で逆転日本一に輝いた。という感想を残されています。
 監督の一言で気の持ち方が変わった、という趣旨の文章です。しかしながら、その中の、「運良く西鉄は4連勝」という一節を書く事が許されるのは、稲尾さんだけでしょう。それにしても、50年近く経った今でも語り継がれるほどの自らの偉業を、さりげなく「運良く」の一言で流したのですから、すごいものがあります。
 この一文を読んだときは、心底驚いたものでした。それにしても、それから二ヶ月も経たずに、「最新記事」を読めなくなる日が来るとは、夢にも思いませんでした。
 実際の投球を見たことがないにも関わらず、私にとって、「最も心に残る投手」の一人でした。今にして思えば、創設当時から監督を務めた、マスターズリーグの「福岡ドンタクズ」での投球を一度でも見ておくべきでした。心底後悔しています。
(サイト内参考記事・「記録に残る選手」と「記憶に残る選手」最多登板数について

2007年11月14日 01:34