2006年03月14日

「記憶」と「記録」

 同時代に並び立った大物二人を比較する時に、「○○は記録に残り、××は記憶に残る」という表現が使われる事があります。一番よく使われるのは、読売球団の9連覇時代に活躍した王選手と長嶋選手のようです。他に、同時代に活躍した相撲の大鵬関と柏戸関(故人)で使われているのも見たことがあります。
 しかし、よくよく考えてみると、これは比較になっていません。「記憶に残る」というのは個々人の完全な主観であり、「記録に残る」というのはそれに比べるとかなり客観性の高い基準だからです。さらに言うと、「記録に残る」と呼ばれる人が「記憶に残らない」などという事はどのくらいあるのでしょうか。私は、「ON時代」の野球を見たことはないので、直接当時の二人を比較することはできません。とはいえ、少なくとも私の知る限り、「王選手の本塁打数や三冠王などの大記録は知っているが、当時の試合は見ていたのに、彼がどんな選手だったかは思い出せない」などと言う人を見たことはありません。

 にも関わらず、一部世代においていまだに「ON時代」というものが語り継がれているわけです。となると、「記憶」と「記録」を尺度にして二人を比較する際は、「ともに記憶に残る選手だが、記録面では王選手が上だった」としたほうが適切なのではないでしょうか。ちなみに、長嶋選手も打撃タイトルを計13回も取っています。同時代に王選手がいなければ、十二分に「記録に残る選手」でもあったわけです。
 もちろん、「どちらが好き」というのはその人の主観であり、別にどのような主張をしようと自由です。しかしながら、「自分としては○○より××のほうが好きだ」と普通に言えばいいところを、「○○は記録に残るが、××は記憶に残る」と何の根拠もない事を、あたかも「客観データ」であるがごとく主張するのには、姑息さみたいなものまで感じてしまいます。

2006年03月14日 23:10