15年ぶりの皿洗い

2010/2/27

 大学時代、筆者はとあるホテルで皿洗いのアルバイトをしていた。大学一年の初夏に情報誌を見て、「未経験者でもできる・時給も普通・歩いて通える」という理由で決めた。
 単なる小遣い稼ぎのつもりだったが、これが意外に面白かった。慣れない最初のうちは、何が何だかわからず、言われるがままに右往左往していただけだった。しかし、仕事の意味が分かると、単純労働に見えてかなり奥が深い、という事が分かった。
 そうなっていくと仕事が面白くなる。面白くなれば上達し、周囲の評価も上がる。という感じで、だんだんと居心地が良くなっていく。
 ちなみに、入学当初は時給が倍以上ある家庭教師のバイトもやっていたが、こちらがあまり自分にあわない事もあってすぐに辞め、皿洗い一本になった。
 特に卒業も就職も決まり、所属していたサークルのレギュラー争いに敗れて目標がなくなった4年の夏以降は、本当によくバイトしたものだった。ここまで行くと趣味みたいなものである。
 バイトした金を貯めてそこそこ豪華な卒業旅行をしたのだが、最終日にはバイト先に電話して、翌日のシフトに入れて貰った。そして卒業式の日も、終わった後は飲みにも行かず、バイトに行ったほどのハマり具合だった。
 ところで、ホテルなので、年末年始も休みではない。それどころか、最大の繁忙期である。そのため、この時期は時給も高くなる。というわけで、大学四年間、年末年始は全てバイトだった。皿を洗いながら年越し、というのも一度ならずやっている。
 卒業して就職しても、一年目はたまにバイトしていた。別に金に困っていたわけではない。大学時代の趣味の延長みたいな感じだった。そして長期休暇である年末年始も当然ながら入った。

 ところが、卒業のほぼ直前に発生したバブル崩壊で事情が変わった。ホテルの入客が減り、人が余る。すると、ホテルとしては業者に請け負っていた業務を暇になった社員にやらせようと考える。
 そのあおりを受け、バイトしていた会社への受注は減っていった。したがって筆者のような半分趣味みたいな人間も不要になる。そして、卒業して三年目の年末年始を最後に、バイトのほうは自然消滅のようになった。

 というわけで、それ以来、皿洗い・ホテルは縁のない生活を送ることになった。しかしながら、学生時代にやっていたこの仕事は、自分に大きく影響したと思っている。
 たとえば、最初の職場でもいろいろ辛いことや嫌なこともあった。正直参りかけた事もあったが、「学生時代のバイトでも、最初は怒鳴られてばかりだったが、やがては重宝がられた。だから同じようにやっていれば、いつかは認められる、と自分に言い聞かせ、実際にそのような結果になった。
 また、仕事自体への愛着も残っている。そのため、このサイトでも、何度かその事に言及している(例1例2
 とはいえ、実際に皿洗いをする機会はさすがになかった。まあ、学生時代に決めたキャリアプラン(?)では定年退職したら洗い場に戻る予定だったので、その時まではないだろうな、などと思っていた。

 ところが、いろいろあって、2009年の年末から2010年の年始にかけ、学生時代に立てた予定より20年以上早く、ホテルで皿洗いをする機会を得た。
 前のバイト先で最後に入って以来、15年ぶりである。自分でも、どのへんまで覚えていて、どのくらい忘れているのだろうか、と楽しみ半分、不安半分のような気分で現場に入った。
 最初に指示されたのは、ナイフ・フォークなどを拭いて分類する「シルバー拭き」だった。これは新人がまず最初にやらされる事である。同じナイフ・フォークといっても、何種類か存在する。
 なかには、形状がほぼ同じで、大きさが異なるものもある。最初のうちは、ついつい一緒にしてしまい、並べて初めて気づく。しかし、慣れてくると、持つだけで手に感じる重さなどから即座に違いが分かるようになる。
 面白いことに、その感覚は15年のブランクがあっても残っていた。「手の記憶力」というものに驚かされた。
 もう一つ、コップをひっくり返してラックに入れる、という作業がある。初心者は一個ずつ、ちょっと慣れると二個ずつひっくり返す。そして、最終的には、同時に四つできるようになる。学生時代、四個ずつ引っくり返す事ができた時はなかなか嬉しかった。そのやり方も手が覚えていた。
 というわけで、手レベルではそこそこ覚えていたが、「仕事の流れを読む感覚」についてはほとんどなくなっていた。最初に書いたシルバー拭きを初め、皿洗いの仕事はいくつも作業がある。そして、一人が一つの作業だけしていればいいわけではない。
 その時の皿の下がり具合、洗浄機で流しているものによって、すべき作業が変わってくる。最初のうちは、上司に言われるまま動くよりないが、慣れてくると、自分の判断で今すべき作業が分かってくるのだ。
 この能力は残念な事にほとんど失われていた。まあ、これは同じホテルでも宴会場・レストランごとに違うと言ってもいい。ましてや、今回働いたところは、かつてとは違うホテルである。そう考えれば仕方ないとも言える。とはいえ、やはりかつて出来た事が出来なくなっている、というのは残念かつ悔しいものだった。

 結果として、四日間で三つのレストランにて働いた。特に二つ目のレストランは元旦の昼に「デビュー」という形になったうえ、少々特殊な仕組みがあったため、かなり戸惑った。とはいえ、なんとか問題もなく終えることができた。
 事前に不安視していたこととして、20代と40代の自分の体力差、というものがあった。特に、立ち続ける仕事など、その間ほとんどしていない。足腰が持つか不安だったが、意外に何ともなかった。
 あと、終わった後は、普段より頭が冴えているような気分になったりもした。ちょっと不思議だが、一つ思い当たる理由があった。
 普段の仕事では、出勤と同時にパソコンの電源を入れ、そのまま向かいっぱなしになる。さらに帰宅してもすぐパソコンをつけるという生活になっている。
 したがって、日常でパソコンの画面を長時間見ないのは、移動中か寝ている時か飲み会の間だけ、という生活を10年以上続けていた。
 そんな中、4〜10時間ほど、皿ばかり見ていたわけである。どうやら、それが頭にとっていいリフレッシュになったようだ。
 そういう意味でいい気分転換にもなった。また、久しぶりに、「多客時に大量に下がってくる皿が、最後にすべて片付いた時の達成感」を味わえたのも嬉しかった。というわけで、機会があったらまたやりたいものだ、と強く思った「15年ぶりの皿洗い」だった。