「朝青龍仮病事件」の報道について
2007/8/6
横綱の朝青龍関が腰の疲労骨折などで夏巡業を休場しながら、モンゴルで行われたサッカーイベントに出演して、シュートを決めたりした、という事件が大問題となっている。その結果、朝青龍関には前代未聞の二場所連続の出場停止なる処分が下された。
いったい、彼はどのような大問題を起こしたというのだろうか。新聞などの見出しを見ると、「仮病」という言葉がよく出ている。つまるところ、「サッカーイベントに出演できるのだから、夏巡業を怪我で休んだのは仮病だ」という論法のようだ。
果たしてこれは正しいのだろうか。まず、ほとんどの報道では、この「イベント」という言葉を微妙な形で使っている。記事の頭で「朝青龍がサッカーをしていた(「興じていた」という表現も多用されている)事がわかった」とし、本文の中で、「中田英寿氏らとサッカーのイベントに出演していた」としている。
筆者はサッカーに関しては素人だが、「サッカーをする(興じる)」と「サッカーのイベントに出演する」では天と地との差がある事くらいは分かる。相撲で言うなら、本場所で100キロ以上ある相手力士の突進を受け止めるのと、よくTVにも流れる何人かの子供を土俵に上げてその当たりを受けるくらいの違いだ。
にも関わらず、見出しや最初の概要紹介文では「サッカーをしていた(興じた)」となるわけである。これだけで、まず一つ、報道の意図が見えてくるだろう。
さらに報道では、自明の理であるがごとく「腰の疲労骨折で夏巡業を休場しながら、サッカーをする(実際はイベントに出演しただけだが)のはおかしい。仮病と疑われても仕方がない」などと書いている。ところが、これも実は二重の意味で意図的としか思えない事実誤認が存在する。
まず、朝青龍関の状況についてだ。「サッカーをした」のは7月25日だったそうだが、その三日前の22日まで、朝青龍関は名古屋場所で相撲を取っていた。その千秋楽には白鵬関に勝って優勝している。その相撲はTVで見ていたが、朝青龍関が直接ダメージを受けたような形跡はない。
つまり、22日に横綱相手に相撲を取れたのだ。そう考えると、25日にサッカーイベントに出演できなければむしろ異常だ。イベントでシュートくらい放って当然だろう。こうなると、あれだけ大きく騒がれている「サッカーイベントへの出演」などは、「出れて当然」というものでしかないことがわかる。「25日のサッカーイベントに出演」など、「仮病疑惑」には何ら関係がないのだ。判断すべき事実としては「22日に本場所で相撲が取れた事」と「その直後に夏巡業の休場届を出した事」だけだ。
もちろん、このように「サッカーイベント」が消去できた状態でも、朝青龍関の「仮病疑惑」を報じる事は可能だ。「22日に相撲が取って優勝したのに、8月からの夏巡業を腰の疲労骨折を理由に休むのはおかしい。仮病だ」という論法だ。
しかし、相撲協会がその休場届を受理したわけだ。もし、名古屋場所の優勝力士が腰の疲労骨折などを理由に夏巡業を休場、という事が異常なら、その時点で、休場届の不受理などの対応がなされていたはずだ。筆者は20年半ほど前までは相撲雑誌を毎号読んでいた。もしかしたら現在は全く状況が異なるのかもしれないが、少なくとも当時は、、「場所中にどこどこを痛めたため、巡業には参加せずに部屋で調整」という本場所は皆勤した力士の近況記事は少なからず存在したと記憶している。
また、「骨折しているのにサッカー」という言葉がやけに使われているが、これについても意図的なものを感じる。「骨折」で検索すると出てきた、とある製薬会社のサイトによると、骨折にはさまざまなケースがあり、大きさ、重症度、必要な治療法も異なります。手の骨の、気づかないほど小さなひび割れのような軽い骨折もあれば、骨盤骨折のように生命を脅かす重大な骨折もあります。とある。つまり、骨折というのは範囲が広いのだ。そして、軽いレベルの「骨折」だからこそ、朝青龍関は本場所で相撲を取り続ける事ができたわけだ。もちろん、千秋楽終了数日後のサッカーイベントに出演した事も何らおかしい事ではない。
たとえば、プロ野球・マリーンズのズレータ選手は、4月半ばに死球を受けて小指を骨折した。しかし、軽度という認識のもと、試合には出場し続け、本塁打すら打っていた。しかしながら、無理をし続けて出場し続けたところ、症状は悪化し、長期離脱を余儀なくされたのだ。
この事から考えても、緊急性がないにせよ、腰の骨の状態が万全でない朝青龍関が、名古屋場所を務めあげた後に、直後の夏巡業を休む事は何ら異常な事ではないことがわかる。
なにしろ、この夏巡業は群馬県を起点に、休みは一日だけで、17日の間に一度北海道まで行った後、また東北地方を下って群馬県に戻る。しかもほぼ毎日が移動日という極めて厳しい日程なのだ。しかも、行く先々で稽古を見せ、土俵入りし、相撲も取らねばならないのだ。その間に腰を悪化させて秋場所を休場するような羽目になったら、それこそ元も子もないだろう。だからこそ、朝青龍関は休場届を出したわけで、協会もそれを受理したわけだ。
もちろん、相撲協会の規定に、「巡業を休場中に、イベントに出演してはいけない」というものがあれば、朝青龍関に非はあるだろう。しかし、師匠である高砂親方や、北の湖理事長の談話を見る限り、そのような事はない。彼らの論法は「サッカーのイベントに出場できるなら、巡業も出れるはずだ」というだけのものである。
繰り返すが、サッカーイベントがあったのは25日、本場所の千秋楽があったのは22日であり、さらに22日以降に朝青龍関が怪我をしたわけではない。にも関わらず、彼らが、この「事件」で激怒しているのだから極めて不可解だ。
理由として思いつく事といえば、彼らが「25日のモンゴルで、朝青龍関が極めてハードな運動をした」と誤認識しているか、「実は22日の千秋楽の相撲は八百長で、朝青龍関はその時点でまともに動けなくてもおかしくなかった」という認識をしているか、といったところだ。後は、最初からマスコミと示し合わせて、今回の朝青龍関失墜事件を仕組んでいた、という事くらいしか思いつけない。
最後に述べた「師匠とマスコミが組んで」という一見、突拍子もない仮説を書いたのは、前例があるからだ。二十年半ほど前、横綱だった双羽黒関(現・立浪部屋アドバイザー・北尾光司氏)が、「目に余る問題行動」を理由に角界を去らざるを得なくなった、という事件だ。
当時の報道における、「双羽黒叩き」ぶりは、今の「朝青龍叩き」と瓜二つだった。現在の朝青龍関同様、彼が何か目立つことをやれば、それは全て批判の対象となった。何しろ、双羽黒関は、パソコンを愛好していただけで、「新人類横綱」などと言われ、暗に「相撲界の伝統にそぐわない」と批判されたのだ。
そして、双羽黒関は、直前の1986年九州場所で優勝争いをしながら、その年の末に、「親方夫人に暴力をふるった」などの理由で、横綱としては約65年ぶりの廃業(現在は使われない言葉・現役を引退した後、年寄りとして相撲協会に残らない事を意味する)を強いられた。
ところが、それから十数年経って、「被害者」とされていた親方夫妻は、定年退職後に、後継者から金の問題で何件も裁判を起こすほどの人物であった事が明るみになった。また、当時は、その親方のリークとしか思えない形で「付け人は双羽黒関の暴虐さに耐えかねて集団脱走した」という情報が何度も報道されていた。ところがそれから十数年たち、当時の親方と新立浪部屋が絶縁した時に北尾氏は立浪部屋に復帰した。その時、北尾氏を推薦したのは、「集団脱走」したはずのかつての付け人だった、というオチまでついている(詳細は、当サイト内「心に残る力士・北尾光司」を参照のこと)。
今に始まった事でないここ何年かの「朝青龍バッシング」と、その度に出てくる師匠である高砂親方の冷たい発言は、当時の状況と非常によく似ている。今回のバッシングと処分のせいで、朝青龍関は精神的にもかなり厳しい状況になっているそうだ。しかしながら、高砂親方の発言は、他人事という言葉を通り過ぎ、冷酷としか言いようのないものばかりしかない。
何しろ、うつ病の危険性がある、と言われている朝青龍関に「頑張ろう」などと言ったのだそうだ。これが事実なら、発症を期待していると言われても仕方ないだろう。ついでに言うと、そのような「うつ病の非常識」としか言いようのない師匠の言動を、何ら批判せずにそのまま流すマスコミも異常としかいいようがない。「横綱の品格」などという、具体的に述べることもできない物を論じる前に、そちらをまず論じるべきではないだろうか。
このまま、狭量な親方と、マスコミ連中により、希有な天才が、人為的な原因で活躍の場を奪われるのは、極めてもったいない事だろう。
だいたい、現在の相撲協会には、新弟子検査受験者がゼロな上に、場所前の稽古での死亡事件などを起こしている、という緊急事態が発生している。しかしながら、それらの問題にたいしてまともに対処しているようには見えない。その一方で、これまで看板として活躍していた功労者をこのような形で貶めているわけだ。
先日までは、筆者も「33回目の優勝をするまでは相撲を続ければ」と思っていた。しかし、これではまた同様の事件が発生する可能性はありそうだ。という事もあり、いっそのこと、朝青龍関はこれを機に即座に相撲に見切りをつけ、他の格闘技に転向すればいいのではなかろうか、と思えてきている。そちらのほうが。その天賦の才に見合った結果と名声を得ることができるだろう。
そして、相撲界は朝青龍関のいない所で、引いたりはたいたりを繰り返して、さらに観客と力士志願者を減らせばいいのだ。そしてまた規格にあわない横綱が出てくれば、マスコミと結託して潰す、というのを繰り返していれば、狭い世界で彼らは満足するのだろう。