心に残る力士−北尾光司

2003/9/6追記

 相撲の歴史で横綱は現在の武蔵丸に至るまで67人しかいない。その横綱のほとんどは、「気力・体力の限界」を感じて引退し、「年寄」となって相撲協会の運営・後進の育成を行って相撲人生を全うする。
 しかし、ごく一部の例外として、このような平穏なやめ方ができなかった横綱もいる。玉錦・玉乃海は急病により横綱のまま世を去った。また、力士の労使紛争(?)の責任を感じて自ら断髪した大錦という横綱もいた。そして、ある意味歴代横綱で最も特殊な辞め方をしたをしたのがこの双羽黒だろう。

 1984年秋場所に21歳で入幕し、3場所目に三役、9場所目の1986年初場所に大関となった。大関までの8場所中、負け越しは休場した場所の1回だけ。うち5場所は二桁勝利である。
 相撲は恵まれた体格を生かした正統派の四つ相撲だった。特に有名なのは、上から圧力をかけて膝をつかせる「鯖折り」という技で小錦に勝った相撲だろう。北尾の巨体とパワーの凄さを感じさせられた一番だった。
 大関昇進後も4場所連続二桁勝利。三場所目で準優勝し、四場所目で優勝決定戦に進出。「二場所連続で優勝もしくはそれに準じる成績」の内規によって、優勝経験なしで1986年秋場所に22歳で横綱に昇進し、四股名もそれまでの本名から「双羽黒」と改名した。
 非常に順風満帆な出世と思われたが、この「優勝なしで横綱」というのが彼の力士生命を縮める事になるとは、この時は誰も思わなかっただろう。

 22歳で新横綱となり、大横綱の期待もされた双羽黒だが、その場所でいきなり休場してしまった。次の場所は準優勝、その次の場所は優勝決定戦進出と、これまでと同じような成績を挙げたが、どうしても「優勝」を手にする事はできなかった。
 そして次の場所で横綱になって2度目の休場をしたあたりから、双羽黒への風当たりが強くなってきた。「優勝経験のない横綱」という批判に端を発して、「部屋で暴君のように振舞っている」という批判までされるようになった。おそらく、この頃から立浪親方との対立が修復できないレベルに達したのだろう。普通、関取−ましてや横綱−の部屋内での問題行動が表に出る、という事は相撲協会の体質からは考えられない。それが表に出る、という事は親方サイドからのリークだったと考えるのが普通だろう。
 こうして、相撲界では珍しい「悪役」となってしまった双羽黒に対し、マスコミも容赦なかった。一年前までの好成績は忘れ去られ、「弱い横綱」「新人類横綱」などのレッテルを貼られた。ちなみにその時筆者は高校生だったが、あるとき相撲の事をほとんど知らない友人に「俺は双羽黒は嫌いだ。なぜなら横綱なのに優勝経験がないからだ」と言われた。「優勝経験がないのに横綱になった」のは別に彼のせいではないと思うのだが、とにかくそういう風潮があった。確かに、優勝できないのは実力が至らなかったためだろうし、人柄に問題があった事も事実なのだろう。しかしながら、そこまで叩かれる必要はあったのだろうか。
 その後半年ほど不本意な成績が続いたものの、横綱になって八場所目の1987年九州場所は初日から13連勝、復活なるかと思われたが、14日目に北勝海、千秋楽に千代の富士と九重部屋の横綱二人に連敗して、準優勝に終わった。そしてこの千代の富士戦が結果としては双羽黒の最後の相撲となった。
 その年の暮れ、「双羽黒が親方夫人に暴力をふるって部屋を脱走」という事件が発生した。そしてその責任を取る形で双羽黒は廃業し、相撲史上最初で(おそらく)最後である「親方夫人を蹴って土俵を去った横綱」となってしまった。

 その後、本名の北尾光司に戻った彼は、空前絶後の職業「スポーツ冒険家」を名乗り、雑誌などに登場し、人生相談などをやっていた。  それも長く続かず大方の予想通りプロレスラーに転向した。ところが、そこでも相変わらずの問題児ぶりを発揮する。最初に入った新日本プロレスでは長州力と対立して退団。次に入ったSWSという団体ではなんと「八百長野郎」というプロレス史上に残る大暴言を吐いて解雇された。
 その後、「空拳道」なる謎の武道に入門して滝に打たれながら人格修行を積み、プロレスに復帰した。しかし、暴言はなくなったものの、プロレス界でトップを張ることはついにできず、ひっそりと引退した。

 結果として、恵まれた体格・才能を生かしきることができなかったわけだが、一体何が原因だったのだろう。もちろん、本人の人柄が最大の原因と言えばそれまでだ。しかしながら、中学を卒業してすぐ上京し、相撲一筋の生活をしていれば、一般社会人の常識はなかなか簡単に身にはつかない。
 そういう意味でも師匠である立浪親方の責任が重要になってくるが、彼の行った事は逆に弟子の問題行動をリークする事だった。もちろん、都合の良くない事を隠すのはよくないが、リークする前にすべき事も沢山あったように思われる。
 ちなみに、双羽黒を失った後の立浪部屋は、元学生横綱の大翔山らが入門するも、なぜか弟弟子の部屋に所属した旭豊と娘を結婚させ、後継者とした。
 そして、部屋継承後すぐに「引退相撲の収益がすべて先代立浪親方のもとに行く」などという事件が発生し、新立浪親方は家から追い出された上に夫人より訴訟を何件もおこされているそうだ。ちなみにこの訴訟には親方はもちろん、かつて双羽黒に蹴られた(?)親方夫人も積極的に関与している。
 このドロドロした家庭問題を見ても、一方的に双羽黒が悪かったとは言えないだろう。この現状をもとに結論を言えば、北尾という才能豊かな格闘家の唯一にして最大の悲劇は、立浪部屋に入門してしまったと事だった、と断言できるだろう。

2003年9月6日追記
 結局、現立浪親方(元旭豊)は離婚し、先代親方のビルにあった部屋も移転した。そして新装なった立浪部屋が最初に行った事は、北尾光司氏をアドバイザーに迎える、という事だった。なお、この話を提案したのは、かつて「双羽黒の暴力に耐え兼ねて集団脱走した」と報じられたはずの、当時の付け人の一人だったそうだ。

 参考サイト
双羽黒(北尾)の幕内成績・概略
双羽黒(北尾)の幕内成績・詳細

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