1985年10月16日と2003年9月15日

2003/09/18

1.1985年10月16日

 1985年、ちょうど高校に入った年、ファン歴6年目の年だった。それまでの数年のタイガースは、良くて3位で悪いと4位という、優勝争いとは縁のない球団だった。そして、新監督に8年ぶり就任の吉田義男氏をむかえた以外にはチームも昨年までと特に変わった事はなかった。しかも、その吉田氏が「今年は土台作りの年」と言うほどで、「今年こそ21年ぶりの優勝」などという雰囲気はまるでなかった。
 よく、この年の象徴的な試合として「甲子園のバックスクリーン3連発」が挙げられる。しかし、たしかに開幕直後は調子がよかったが、4月末には調子を落とし、5月の連休の時点では1位から5位のゲーム差が1.0という接戦だった。
 その後も、常に首位争いをしてはいたが、なかなか抜け出す事はできなかった。この年の夏休み、筆者は後楽園球場でビール売りのバイトをしたのだが、そのバイトに行ったお盆の対読売戦では3タテをくらってしまっていた。
 とはいえ、夏を過ぎてもまだ優勝の目がある、という事自体、1979年頃からタイガースファンになってから始めての事だった。また、三冠王の可能性のあるバース選手をはじめ、打撃陣が好調だった。すべてのタイトル争いをタイガースの選手同士でおこなっていた。そういう事もあり、この年はちょっと違う、という気持ちで野球を見ていた。(もっとも、1992年の時もそう思いながら野球を見ていたのだが・・・)
 そして秋口に入り、いよいよタイガースが抜け出した。特に印象に残っている試合は、対読売戦で同点から掛布選手が決勝タイムリーを打って勝った試合と、9月15日に高卒新人の島田章弘投手が好投し、岡田選手のサヨナラ本塁打を打って勝った試合だった。
 あと、試合ではないが、何度もお立ち台に立ったバース選手のヒーローインタビューが印象に残っている。アナウンサーが「おめでとうございます」と言うのを通訳が「Congratulation!」と訳し、それに対して「Thank You」と答える。この「Thank You」という声が好きだった。

 そして着実にマジックを減らして迎えた10月16日の神宮球場の対スワローズ戦。引き分けでも優勝、というマジック1での試合である。午後の授業をサボり、神宮に行く。昼過ぎから並んでやっとライト側の券が取れる、というフィーバーぶりだったが、現在のチケット入手状況を考えれば「当日の昼に行ってよく入れた」だろう。もちろん、ライトスタンドもタイガースファンでいっぱいだった。
 試合開始前の若松選手(現監督)の二千本安打達成の表彰式があった。大記録には敵も味方も関係ないので、球場全体で「若松コール」が巻き起こる。それにしても若松氏もまさか自分の二千本安打を1万人のスワローズファンと4万人のタイガースファンに祝われるとは思わなかっただろう。
 試合のほうは、スワローズペースで進む。しかし、2点差の9回表に掛布選手の本塁打と佐野選手の犠飛で同点となった。この佐野選手の犠牲フライが外野に舞い上がったのは、一番記憶に焼きついている。というか、この犠牲フライを見た時から、優勝が決まって、周囲のファンと握手をしまくった時まで、記憶が飛んでいる。
 こうして、21年ぶりの優勝が達成された。当時16歳の筆者にとってはもちろん、初めて見る優勝である。そしてその勢いで、日本シリーズ3戦3勝だった広岡監督率いるライオンズに勝って日本一を達成した。

2.17年間でAクラス2回、最下位10回

 翌1986年は優勝争いからは早々に脱落したものの、バース選手が2年連続三冠王を取るなどで3位に。この頃は、翌年以降の暗黒時代など想像だにしなかった・・・。

 1987年に特に戦力の変更なかったのにぶっちぎりの最下位に転落した。球団史上2度目の事である。さらに翌1988年には新監督に元「ミスター・タイガース」村山実氏(故人)が復帰するものの、春先にバース選手が息子さんの病気がきっかけで急遽帰国→退団。さらに「ミスター・タイガース」こと掛布選手も、球団に冷たい仕打ちを受けてシーズン後に引退した。そして当然のごとくチームは2年連続最下位だった。余談だが、この年に初めて甲子園でタイガース戦を観戦した。バース選手の後釜で途中入団し、日本球界初の背番号「00」をつけたジョーンズ選手を見た事が印象に残っている。
 翌年はなんとか最下位を脱して5位になるものの、村山監督は解任。続く中村監督も2年連続最下位を達成した。ただ、1991年については、夏場に若手投手が連続完投勝利をする、という来期に期待できるような「事件」があった。

 そして1992年。この年から背番号を「00」に変更した亀山選手が一塁にヘッドスライディングをするなど闘志あふれるプレーでチームが活気付く。また、強肩でパワーもある新庄選手の台頭も好材料だった。外れの多かった外国人選手も、オマリー選手・パチョレック選手が安定して活躍。さらにノーヒットノーランを達成した湯舟投手を始めとする昨年から充実しだしていた先発投手陣(野田投手・仲田投手・中込投手・猪俣投手・葛西投手)が好成績を挙げた。
 その中で、この年に筆者が一番印象に残ったのは、リリーフエースの田村投手である。左の横手投げからのキレのいい球でほぼ完璧な抑えを演じた。
 ただ、その田村投手の故障もあり、終盤に力尽き、最終的には同率2位に終わった。にもかかわらず、この年に「中村監督に学ぶ管理術」みたいな本が出版されたのには笑った。その「奇跡」も長続きせず、翌年・翌々年と4位に終わる。とはいえ、3年も最下位がなく、1985年以前の状態に戻ったようにも見えた。

 それが再び暗黒時代に戻ったのが1994年のオフであった。主砲であり、1993年には首位打者を獲得したオマリー選手を解雇したのである。理由は「態度が気に入らない」といった球団フロントの感情的なものだったらしい。そしてオマリー選手はスワローズに移籍し、MVPになった。さらに1995年シーズン途中には5位だというのに中村監督を解任。後任の藤田平氏の就任第一声は「この程度のチームがドラゴンズと最下位争いをするのはおこがましい」みたいなものだった。そして公約通り見事タイガースを4年ぶりの最下位に導いた。そして翌1996年にもその迷采配が炸裂。特に関川選手(現ドラゴンズ)は、3割を越える打率を残しながら、干されていた。
 とにかく、この年の「藤田采配」、そして「チーム成績を下げる事によって選手の年俸を抑えて経費を節減する」と考えているとしか思えない球団に対し、怒り続けた一年だった。
 さすがに藤田監督は1年半で解任され、「日本一監督」の吉田義男氏が1997年に2度目の復帰したが、残念ながら1987年の再現しかできず、1年目5位、2年目6位に終わり、解任された。

 しかし、翌1999年、これまで勝つ気を感じさせられなかった球団が全タイガースファンを驚かせる人事を行った。1982年の安藤監督就任以来16年間、OBが就任していた監督職を、昨年までスワローズを率いて優勝4度の実績を持つ野村克也氏に就任依頼をしたのである。すっかり「球団は年俸抑制のために負けるように編成をしている」と思い込んでいた筆者にとっては衝撃であった。とはいえ、「どうせ野村さんは隠れ蓑で、また球団に人脈のあるOBがなるに違いない」とか「野村さんが受けるわけがない」などと、否定的に考えていた。
 しかし、野村氏は受諾。そして就任1年目の1999年序盤、タイガースは序盤から好調で首位争いを演じた。特に目立った新戦力がいなかった事もあり、マスコミは「野村効果」と取り上げ、阪神百貨店では「純金の野村監督像」などというものも売りに出された。
 しかし、この「効果」は夏までの話で、そこから一気に最下位まで転落し、そのままシーズンを終えた。そして、翌2000年も5月以降に失速、2001年は最初から失速し、球団史上初の4年連続最下位となってしまった。そして、野村監督は、夫人の脱税問題が発生した事もあり、引責辞任をした。
 この、野村監督の3年間の評価は、人によって大きく分かれる。ただ、筆者は、この3年間があったからこそ、2003年のタイガースがあると思っている。それは井川投手や赤星選手をドラフトで取ったとか、ドラゴンズの控え捕手だった矢野選手に野村理論を伝授した、とかいう現場レベルの事だけではない。それまでの「勝つことより儲ける事」というった姿勢や、OBと球団幹部や本社の人脈で人事を決めるという、タイガース低迷の原因となった体質にメスを入れた事にある。
 ちなみに、今回の優勝翌日に出たデイリースポーツで、他のOB・評論家が「投打がかみあった」とか「補強が成功した」などと無難な事しか言わなかったのに対し、野村前監督は「長年にわたる球団運営のやり方の間違いに気づき、やっと正しい道を踏み出した事が勝因の第一と考えます」と述べている。
 そして野村監督の進言もあり、後任にはこれまた前期まで他球団で指揮をとっていた星野仙一氏を招聘。さらに、ファイターズから片岡選手を、ブルーウェーブからはアリアス選手を、とパ二球団の主砲を獲得する。さらに成長した井川投手をはじめとする投手陣の活躍で、開幕7連勝と好スタートを切り、序盤のペナントレースを引っ張るが、W杯日程などにも祟られ、結局4位に終わった。とはいえ、4年ぶりの最下位脱出だし、4位と言えば1994年以来の「快挙」であった。

3.2003年9月15日

 そして2003年になった。今度はFAで「3割・30本・30盗塁」の金本選手をカープから獲得した。年間でクリーンアップ3人分を補強した計算になる。さらに前年まで大リーグに在籍していた伊良部投手も獲得した。
 この「新生・タイガース」はオープン戦から勝ちまくった。オープン戦というのはあまり勝つとレギュラーシーズンに反動がくる。しかもタイガースは昨年に「息切れ」をした実績がある。そこで、逆にオープン戦で勝てば勝つほど、「今期も夏までか・・・」とシーズンへの期待はしぼんでいた。
 ところが、シーズンに入っても好調を持続。そして昨年大きく負け越した6月に入っても勢いは止まらない。昨年圧倒的な戦力差で日本一になった読売が、主砲の松井選手が大リーグに行ったうえに、怪我人が多発したのも大きかったのだろう。
 そんな中、偶然チケットが手に入り、18年ぶりに読売−タイガース戦を見る事があった。その試合は6月22日にあったものの、すでにタイガースは独走準備体勢、という感じ。まだ6月だというのに、読売びいきのマスコミは「メークドラマ」などという言葉を使うほどだった。前日の21日には、今期対読売2度目の「1イニング2桁得点」を挙げて逆転勝ち。そして翌22日は、筆者の目の前で、1回の表先頭打者から2連続エラーという「メークドラマ」ぶりを見せ、序盤でタイガースがリード。反撃をかわして勝った。これで読売に引導を渡した。
 その勢いのまま、7月初旬にマジックが点灯。8月にちょっと失速したが、高校野球が終わって甲子園に戻ってから再び勢いが戻った。マジックを一気に減らして5にし。神宮・名古屋・甲子園と続く9連戦をむかえた。
 ここまで来ると、もはや「いつ・どこで優勝を決めるか」のみが興味の対象となる。優勝のプレッシャーなどから、最速では決まらず、胴上げはナゴヤドームかな、と予想していた。14日にはどうしても外せない用事があってTV観戦は出来ない。13日ならフル観戦できるので、この日に決めてほしい、などと勝手な事を考えていたのだが、スワローズ・ドラゴンズとも好調で6連戦を1分5敗で終わり、マジック2で甲子園に戻る、という結果となった。

 そしていよいよ9月15日となった。この時点でスワローズとカープが同時にマジック対象となっている。そしてタイガースがカープに勝ってスワローズが負ければ優勝、という事になった。とはいえ、タイガースが14時開始なのにスワローズは16時開始。したがって、「延長12回サヨナラ」などという事がなければ、「勝利=胴上げ」という事にはならない。カープ戦は試合開始から見ていたが。しかし、勝っても優勝が決まらない上に、途中から始まったベイスターズ対スワローズ戦でスワローズは初回からリードという展開になっていた、という事もあり、この試合の中継は特に緊張感もなく、のんびり見ていた。
 そうこうしているうちに、赤星選手のサヨナラ安打でカープに勝ってマジックは1となった。そして、ベイスターズは逆転した上に大量リード。「15日の胴上げ」が現実味を帯びてきた。
 そこで、外出して祝杯用のビールを買う事にした。1本はヱビスビール、もう1本はヱビス黒ビールにした。普段、缶ビールの類を買うときは、2本目は安物にしているのだが、「特別の日」という事で2本ともいい物にした。
 ベイスターズは着実に勝利に向かっている。そして9回表になった。それまではのんびりと見ていたが「あと一人」になった時は、自然とTVの前に正座していた。そして最後にデニー投手が真中選手を打ちとってゲームセット。タイガースの18年ぶりのリーグ優勝が決まった。とはいえ、すぐには特別な感情は生じなかった。まあ、見ていたのがベイスターズ対スワローズ戦だったからなのだろう。
 チャンネルを地上波の民放に変える。どこも画面上に「タイガース優勝」のテロップを流していた。そしてどこかの局で臨時中継が始まった。甲子園球場のベンチから飛び出して星野監督を胴上げをする選手たち。なぜか胴上げの輪の脇で金本選手のミニ胴上げがあったり、藤本選手がひきずられていたりする。そのような場面を見たら、「そうか、やっぱり優勝したんだな」とちょっと嬉しさがこみ上げてきた。そして、先ほど用意した祝杯用のヱビスビールを飲んだ。
 しばらくして、筆者の「タイガースファンの師」である父から電話がかかってきた。なんでも偶然、「優勝決定試合」となった横浜スタジアムの試合を見に行っていたとのこと。試合中は常にタイガースの経過ばかり気にしていたらしい。そんな話をしていると、物心のついた頃に不思議に思いながら見ていた、タイガースの中継に一喜一憂している父の姿が思い出された。
 こうして、2度目のリーグ優勝の日が過ぎていった。前回の熱狂のど真ん中にいた時に比べると、冷静かつ平凡な「優勝の日」だった。