生涯現役

 99年1月31日に永眠したジャイアント馬場選手の追悼文です。

   子供の頃は、プロレスはあまり好きではなかった。と言うよりもむしろバカにしていた。当然、ジャイアント馬場選手も、「50過ぎてもリングに上がって『アッポー』とか言っている人」でしかなかった。
 しかし、たまたま日曜の深夜に起きていて、当時同居していた弟の見ていた全日本プロレス中継を見たら、それがとんでもない誤りだという事に気づいた。
 主に見ていたのは、三沢選手や川田選手・ハンセン選手などの激しい戦いである。彼らの人間の運動能力・耐久力をつきつめた試合に心をひかれ、いつの間にかプロレスファンになっていた。
 当時、すでにジャイアント馬場選手は50代半ばで、第一線からは退き、前座の後に「ファミリー軍団対悪役商会」という設定で、「明るく楽しいプロレス」を主にやっていた。
 もちろん、前述した激しい戦いに比べると、コミカルな試合である。とはいえ、「十六文キック」などに代表される往年の技や動きは、50代の人のものとは思えないものがあった。
 また、社長としての自己の団体並びにプロレス界に対する行動・発言は、常に冷静かつ的確だった。虚勢を張ることは一切なく、「レスリング」と「お客さん」という二つをつねに念頭においての言動だった。出来る事と出来ない事を冷静に分析し、合理的に進める。
 かつての世界チャンピオンでありながら、年齢による力量の衰えを客観的に認識し、「明るく楽しいプロレス」に転向したのも、その合理性の一つの象徴と言えるだろう。
 とはいえ、晩年でも、「強さ」を発揮した試合はあった。最強タッグでハンセン選手のパートナー負傷にともない、急遽パートナーとなって結成した即席タッグでは、四天王相手にひけを取らない戦いを見せた。
 それから数ヶ月後、「特別試合」として再びハンセン選手と組んで三沢選手・小橋選手組と対戦。最後は敗れたものの、随所に見せた「強さ」は心に深く焼き付いている。
 その後、生活習慣が変わった事もあり、深夜の全日本プロレスが見れなくなった。そのため、なんとなくプロレスからも離れてはいたが、たまに見聞きする、馬場社長の発言には、「その通りだよな」と感服することはよくあった。
 昨年暮、「腸閉塞で入院」と聞いた時も、まさかこんなに重い病だったとは夢にも思っていなかったのだが・・・。
 一つの時代が終わった、ということを痛感している。最後になりますが、心よりご冥福をお祈り申し上げます。