「伝統」による思考停止

2008/1/14

 2007年暮れ、筆者の出身大学にある「応援団リーダー部」で「いじめ自殺事件」が報道された。記事の内容が正しいのならば、変質者の上級生による異常行為に心身とも痛めつけられた学生が自殺した、という「大学いじめ自殺事件」である。
 ところが、大学側の反応は非常に鈍い。自殺事件が7月に発生したものの、「いじめはなかった」と安易に結論を出し、証拠となるビデオが発見された時点ですら、明大は「社会通念上許されない行為や暴力が伴う指導があった」と説明。明大広報課は「いじめとは認識していない。ただ、世間一般から見れば非常識。部の伝統や上下関係が強すぎた。一度解散して新たな応援団をつくるのが良いのでは」と話している。という呑気ぶりである。一体、全裸にして性器を熱湯につけることのどこが「指導」なのだろうか。こんな事をのうのうと述べる時点で、教育機関としての常識を疑いたくなる。
 ついでに言うと、大学公式サイトには、本件に関する記載は見られなかった。事実関係が調査中ならその旨を記載すればいいだろう。
 それどころか、「学生生活」というリンクをたどると、「応援団」の専用ページが堂々と存在し、「リーダー部」もそのまま掲載されている。普通なら、とりあえずリンクだけでも外すだろう。本来ならば、それに加えて別ページにある「悪質勧誘に注意」欄に「応援団の勧誘」を追加するのが筋ではないかと思っている。

 数年前、別の大学で「婦女暴行サークル」事件があった。仮にこの大学でも、この事件が、学生が任意に作ったサークルにおいて発生したらどうしていただろうか。普通なら「婦女暴行サークル」同様、首謀者は退学で、即時にサークル解散命令が出るだろう。
 そのような当然の対処を行わず、「暴力を伴う指導があった」などという「世間一般から見れば非常識」な大学談話を発表しているわけだ。
 このような、異常な事が当然のように行われるのはなぜだろうか。そこにあるのは、「伝統」を「社会常識」より優先させる考え方なのでは、と思った。
 その推論に至った理由として、筆者が在学中に経験した二つの非常識な事がある。それを紹介してみたい。

 一つは、同じ応援団である「吹奏楽部」における「常識」についてだ。筆者の所属していた将棋研究会は、当時は部室がなく、校舎内にある雑居スペースの片隅の机で活動していた。この場所は、授業が終わると「吹奏楽部」の練習場になる。そのため、我々は大音量が鳴り響く中で将棋を指していた。まあ、これは大学の定めた決まりなのだから仕方ない。
 しかし、ある日の事、彼らの練習が終わり、ミーティングをやっていた時の事であった。その時、我々が会話をしていたら、いきなりそこから人が来て、「すみません。もう少し静かにしてください」とクレームをつけてきたのだ。もちろん、我々の出す「音量」は、彼らが出すものの百分の一程度だ。
 普通に考えれば、自分たちの演奏がこちらにとってうるさいくらい分かるだろう。しかし、「吹奏楽部の常識」に染まってしまうと、そのような想像力が欠如してしまうのだろう、とつくづく思ったものだった。
 ついでに言うと、そのミーティングというのも「伝統的」すぎて端から聞いていると異常だった。出席を取る時から軍隊式(?)なのである。しかし、これまた「伝統」によって「常識化」されてしまったのだろう。

 もう一つは応援団ではないのだが、やはり「伝統」によって、異常行為が当然のように伝えられた話だ。
 当時、野球部とラグビー部には、それぞれ「御大」的存在の監督がいて、彼らの言動は絶対的のように扱われていた。その中で、野球部の監督の「厳しさ」を紹介する話で、「便所掃除が雑だった罰として、便器を口でなめさせた」というのがあった。率直に言って、これを見たとき、「この監督、異常者もしくは変質者だ」と思った。ところが、これが大学の中で「厳格な名監督による名指導」であるかのように語られていたのだ。
 もちろん、「精神論」というものを否定する気はない。とはいえ、世の中には常識というものが存在する。その範囲を越えれば、それは「精神トレーニング」ではなく、「いじめ」である。筆者の大学時代はすでに「中学校で教師がいじめを助長し、被害者の生徒が自殺をした」という事件が発生していた。にも関わらず、このような前時代的なしごきを「立派な指導」として学生に紹介していたのだ。

 いずれも20年近く前の話ではある。しかし、その後、これらの非常識な「伝統」が見直される事はなかったようだ。実際、その監督の薫陶を受けた元プロ野球監督は、いまだに講演などで、それらの行為を「美談」として語っている。
 もちろん、歴史や先人の足跡は尊重すべきものである。だからと言って、それを「伝統」として無批判に継承するのは、違う話である。そのあたりを理解できないと、今後もこのような「伝統の名に基づいた異常行動の常態化」および、それによる被害者がなくなる事はないのでは、と強く思わされた事件であった。