猫の思い出

2001/9/6

1.猫が家に来た

 今から12年くらい前だったと思う。ある日の夜、部屋でくつろいでいると、隣の妹の部屋からベランダで、バタバタと走り回るような音が聞こえた。
 何事かと思ってベランダに出ると、そこには三匹の子猫がいた。生まれたばかりなのだろうか、手のひらにのるくらいの大きさである。まだ目もあかず、丸まって震えている。
 どうやら捨てられていたのを二人の妹が拾ってきたようだ。子猫たちは初めての環境に驚いたのか、とりあえず一番これまでいた環境に近いベランダへ逃げたようだった。ヘタに扱うと怪我をさせてしまうので、腫れ物に触るように扱って、なんとか室内に「保護」した。
 それからしばらく、妹たちは猫の世話にかかりきりのようだった。三匹の猫のうち、二匹は三毛猫で一匹は虎猫だった。三毛猫のうちの片方は、うまれつきなのか、左前足の親指以外の四本の指がくっついていた。その猫にはムーン、もう一匹の三毛猫にはスター、虎猫にはサーンと名づけられた。
 乳児の頃は室内で育てていたのだが、ある程度独り立ちした時点で外で飼うことになった。しばらくして、サーンはどこかへ行ってしまい戻ってこなかった。しかし、ムーンとスターは、たまに数日くらいいなくなる事はあっても、基本的には家のまわりで生活していた。
 最初のうちは、猫たちは妹たちにしかなついてくれなかった。たまには筆者が食事を与えたりもしたのだが、それでも筆者が近寄ると逃げていった。
 「まあ、自分はほとんど世話をしていないし仕方ないか」と半ばあきらめていた。しかし、ある日の夜、家の外で古雑誌をまとめていると、ムーンがこちらに寄ってきた。どうやらやっと「味方」と認識してもらえたらしい。しかし、それでも警戒心が強いのかスターはなかなか寄ってこなかった。
 しかし、ムーンとの親密度(?)が増し、筆者の膝の上で遊ぶようになると、スターも、「姉妹の味方のようだから」という感じで、筆者に近寄ってくるようになった。しかしながら、位置関係は常に「筆者−ムーン−スター」という感じだった。

2.自慢の姉妹

 二匹の姉妹は成猫となった。とりあえず避妊手術の時や喧嘩して大怪我した時は医者に連れて行き、食事と冬の避寒所の面倒は我が家で見ていたが、基本的には外で自由に生活しており、「半飼い猫」という状態で過ごしていた。
 外で生活していることもあり、運動量も多く、飽食することもなかったので、二匹ともしなやかな体型だった。外にいるにしては毛並みもきれいだった。とくにスターは三毛の取り合わせもよく、「深窓の令嬢」という雰囲気もただよう美猫だった。
 一方ムーンは、どちらかというと「お姉さん」で、よその猫といさかいがあった時などもスターを守るような感じで正面に出ていた。前足のこともあり、「美猫」ではなかったが、可愛らしい猫だった。
 実際、下の妹が二匹の写真を撮って猫めくりカレンダーに送ったところ、とても仲がよさそうに写っていたため、バレンタインデーの写真として採用された。また、さらに数年後に出た「よりぬき版」みたいなのにも掲載されていた。

 やがて、筆者はアパート暮らしをするようになって実家を出た。それでも、1〜2ヶ月に1回くらい顔を出す時は、嬉しそうに「ニャー」と鳴いて筆者を歓迎してくれた。よく「猫は3日離れたら飼い主の顔を忘れる」と言われるが、はっきり言ってこれは誤りである。そのくらい彼女たちはたまにしか顔を見せない筆者になついてくれた。

3.スターの挨拶

 というわけで、二匹ともたまにしか来ない筆者を歓迎してくれたのだが、最初の頃の「筆者−ムーン−スター」という位置関係は相変わらずだった。
 筆者が実家に行くと、ムーンがまずやってくる。その後ろからスターがくるのだ。そしてムーンは筆者の膝に乗り、丸まったり、指をかじったり、よじのぼろうとしたりする。そしてスターは、ムーンに遊ばれている(?)筆者のまわりをグルグルまわって、それを筆者がなでる、という感じだった。
 ところが、1994年の秋のある日に実家に行ったら、奇妙な事がおきた。その日に限ってスターが膝に乗ってきたのだ。おとなしめな彼女らしく、膝の上で丸まって筆者になでられているだけだったが、これまでなかった事だったので驚いた。

 次に実家に行った時、玄関に猫たちはいなかった。まあ、そういう事も珍しくはないので、気にせず家に入った。そしていつもの調子で何の気なしに家族に「猫は元気?」と尋ねた。すると、「数日前、スターが交通事故で急死した」という返事がかえってきた。
 あまりの驚きにしばらく何も考える事ができなかった。夕食を食べたが、もちろん味など解らなかった。
 とりあえずムーンを探しに外に出る。いつも遊んでいる場所にいたので、膝に乗せる。しかし、やはりスターは現れない。
 気のせいか、ムーンがキョロキョロとしているように見える。その仕草が、「いつも一緒にいるスターはなぜいないんだろう?」と言っているようにも見え、また悲しくなった。

 あの日、スターが珍しく膝に乗ってきたのは、筆者への別れの挨拶だったのかな、と今では思っている。

4.一人になったムーン

 というわけで、ムーンは一人ぼっちになってしまった。親友とも言えるスターを失った後は、代わりを作ろうとせず、常に一匹で行動していた。
 もともと体が大きいわけでもなく、また左前足に障害があるので、喧嘩が強いわけでもない。それで仲間がいないのだから、街中の猫社会では、かなり辛い立場だったと思う。
 そして時が過ぎるにつれて、ムーンも少しずつ老いていった。まわりの若い猫との戦いに勝てるはずもなく、食事をするにも、家の人間が見張っていなければ、横取りされてしまうほどだった。
 にもかかわらず、ムーンの筆者に対するふるまいは変わる事がなかった。会えば「ニャー」と歓迎してくれ、筆者の膝の上に乗りたがった。だんだんと食事をねだる回数も減り、食べる量も減ってはいた。しかし、もともとスマートだったため、さほど痩せては見えなかった。
 そのような状態が何年か続くと、老いたムーン、というのに自然と慣れていった。そして確かに力は弱くなったが、可愛らしさとプライドの高さは相変わらずだった。そのため、このままずっと、ムーンは実家にいてくれるのでは、などと思うこともしばしばあった。もちろん、理性では「猫の寿命は人間より短い」という事はわかっていたのだが・・・。

5.最後まで…

 実家の庭に湯沸しの室外機がある。常に暖かいので、冬になると、ムーンの定番の居場所となっていた。とはいえ、筆者が実家にくると、ムーンはそこから降りて歓迎(?)してくれた。
 ところが、ある冬の日、筆者が来てもムーンは来なかった。「どこかに出かけているのかな」と思ったが、何となく室外機を見るとムーンがいる。「寒くて動く気がおきないのかな」などと思い、こちらから見に行った。するとそこには病で変わり果てたムーンがいた。
 体液が出てしまったためか、あれだけきれいだった毛はグシャグシャになっている。そして口のあたりもおかしい。体調を崩したのは一度や二度ではなかったが、こんな事になるなどという事はなかった。食事も満足に取れないような状態だったが、意識はしっかりしていた。筆者が去ろうとしたら、引き止めるかのように、かすれた声を出した。口の異常で「ニャー」とすら言えないのだ。
 あまりの弱り具合に悲しくなってしまった。そして、このような体になりながら、たまにしか来ない筆者に全力をふりしぼって声をかけてくれる事を本当に嬉しく思った。あの時の光景は、今でも心に焼き付いている。
 これはもう先は長くないのかな、と思ったが、数ヶ月して暖かくなると、相当回復していた。毛並みも声も元に戻っていた。もちろん、かつての元気さはなかったが、でも健康体のように見えた。そして、筆者が来ると玄関で歓迎してくれた。

 しかし、ある日突然、ムーンは姿を消した。行き先は家族の誰もわからなかった。そして、誰もが口に出さなかったが、この「失踪」は飼い主に自分の最期の姿を見せたくないためのものだ、という事はみなが理解していた。

 ムーンが去ってから1年くらいたった。でも相変わらず実家に行くと、半ば無意識にムーンのよくいた場所に目を向けてしまう。この癖は実家が今の場所にあるあいだは、永遠に直らないだろう。