豪雪地帯と温泉
2008/3/2
もくじ
- 経路並びに宿泊地選定
- 東武電車で会津に行く
- 会津鉄道と若松城
- 只見線前半と玉梨温泉
- 只見線後半と飯山線運休
- 十日町と飯山線
- 山田温泉・山田牧場・七味温泉
- 長野電鉄と湯田中
1.経路ならびに宿泊地選定
ちょっとまとまった時間が取れた。次ぎにこのくらいの時間を取れるのは何十年後になるか、というくらいの休みだ。というわけで、約10年ぶりとなる「鉄道旅行」をすることにした。
行き先はいろいろ考えたが、最終的には会津から只見線で新潟県に出て、さらにそこから飯山線で長野に出る経路とした。ともに豪雪地帯を走ることで有名な路線である。行くのは2月下旬だから、最もそれらの路線の特徴が味わえる季節だし、ちょうどいいと思った。
只見線の起点は会津若松だ。首都圏から行くには、東北新幹線から磐越西線に乗り継ぐのと、東武鉄道から野岩鉄道を経て会津鉄道を使うのと二種類ある。磐越西線には乗ったことがあったので、後者の経路を使うことにした。
一泊目は只見線沿線の宿に泊ることにした。いろいろ探したが、只見線の中間地点である会津川口駅近辺にいくつか温泉地があった。そこから旅館のサイトやネットでの評判などをもとに、玉梨温泉を選んだ。
さて、この会津川口に行く只見線の列車だが、朝に会津若松を出るのが二本あるが、もちろんこれには乗れない。その次が13時8分で、その次となると17時2分となる。結論から言うと、この13時8分発に乗るよりない。
そうなると、逆算により、必然的に東武→会津鉄道の列車の時刻は限定される。浅草発朝8時10分の快速に乗ると、会津若松着は12時55分だ。ややせわしないが、会津鉄道と只見線は、二つ手前の西若松で接続するから、そこで待てば余裕で乗り換えができる。
というわけで、西若松発の乗車券を購入することにした。津田沼駅の「びゅうプラザ」で、「西若松から只見線・上越線・飯山線・長野新幹線を経由して幕張本郷まで」という切符を注文する。妙な切符だったせいか、発行まで10分程度かかった。
あと、細かいことだが、東武の快速にどこから乗るかを決める必要があった。船橋から野田線に乗って春日部乗り換えか、京成を使って京成関屋−牛田乗り換えで北千住からにするか、浅草まで出て始発に乗るかの三種類がある。
時間的には北千住だし、値段的には春日部なのだが、せっかくだから、始発の浅草から乗ることにした。
ところが、この選定作業をしている間に、とんでもない失敗をしてしまった。なぜか、自分の頭の中で「浅草発8時10分」が「浅草発9時10分」となってしまったのだった。そして、翌日、会津田島駅に着くまで、それに気付くことはなかった。
2.東武電車で会津に行く
翌朝、順調に(その時点ではそう思っていた)浅草駅に着く。現在の東武は特別料金が必要な列車は全て特急となっており、その下に快速・急行・準急・各駅および、区間快速などの亜種がある。いずれも特別料金は不要だが、この快速は無料ながらかなりの「格」がある。
まず、起点の東武浅草駅には快速専用ホームが設けられている。さらに車内も二ドアでドア付近を除けば固定クロスシートだ。そして、窓には小型のテーブルが設置され、さらに収納式のテーブルまで存在する。
この車内設備は、かつての「国鉄急行」の雰囲気があり、懐かしさを感じた。どうせなら、全車クロスシートにして、デッキをつけてもらうと完璧なのだが、さすがにそれだと通勤運用では不便だから仕方ないだろう。
そして快速は、車内設備同様、国鉄急行なみの速度と停車駅で走る。車窓風景は春日部を越えると畑が目立つようになり、だんだんと住宅街から農村地帯へと変わっていった。そして栃木県に入ると、山が見えるようになった。頂は雪で白く輝いている。そのうち、沿線にも残雪が見えるようになってきた。
この快速は六両編成なのだが、下今市駅で東武日光行き二両を分割する。その下今市駅に着くと、ホーム上に弁当を売る老人がいた。快速は窓があくので、その気になれば、これまたかつて国鉄でよく見かけた「窓を開けてホームから駅弁を買う」が出来る。ただ、まだ11時と昼には少々早いので、あまり売れてはいない感じだった。
下今市を過ぎると、鬼怒川線に入り、各駅に停車するようになる。何度も鬼怒川を渡るのだが、見る度に川の雰囲気が変わるのが面白い。そして鬼怒川温泉を過ぎると、東武の終着駅である新藤原に着く。
ここからは第三セクターの野岩鉄道・会津鬼怒川線に入る。また、列車は後ろ半分を切り離し、二両編成となった。
ここは新線なのでトンネルが多い。そして、あるトンネルを越えたら、周りの景色が雪野原となった。この野岩鉄道、駅の半分以上に「温泉」もしくはそれに準ずる言葉がついている。それもあって「ほっと・スパライン」なる愛称をつけており、駅名票には風呂に入っている少年の絵がついている。ただ、なんか俗っぽく、好感は持てなかった。
さて、列車はだんだんと福島県境に向かって進んでいく。しかし、駅名票に書かれている住所は「栃木県日光市」のままだ。後で調べたら、「平成の大合併」で、日光市は日本でも三番目に広い市になっていた。そして最後の日光市の駅である男鹿高原駅を過ぎると、そのまま県境をも越え、福島県に入った。
福島県に入って最初の駅は、「会津高原尾瀬口」駅だ。ここは野岩鉄道の終点だが、列車は少々の停車ののち、さらに先へと進む。ここからは会津鉄道になる。
なお、この「会津高原尾瀬口」駅だが、会津鉄道が国鉄会津線だった時は「会津滝ノ原」だった。それが「会津高原」となり、さらに「尾瀬口」が追加されたわけだ。駅名改称をするたびに、これまた俗っぽくなっている、というのが率直な感想だった。
会津鉄道に入り、駅名票などは変わったが、すれ違うのは相変らず、東武浅草行きである。この列車の終点である会津田島までは電化されており、運用的には東武鬼怒川線・野岩鉄道とほぼ一体化しているためだ。
そして、終点の会津田島駅に着く。この時の接続案内を聞いた時、初めて自分が乗る列車が一時間遅かった事に気づいたのだから、我ながら呆れた。
しかし、今更悔やんでも仕方ない。接続時間が長かったので、一度駅舎に行く。そばでも食べようかと思ったのだが、駅舎内にはイタリア風ラーメン屋(?)みたいな店しかなかった。会津まで来てイタリアンやラーメンも、と思った事や、接続時間の関係もあり、結局、売店の菓子パンですませた。
3.会津鉄道と若松城
ここからは会津鉄道の気動車となる。先述したように、会津高原尾瀬口駅からは既に会津鉄道だったわけだが、それまで浅草始発の電車に乗っていたこともあり、別の鉄道に変わったような印象があった。
その気動車だが、2004年の野口英世新千円札記念という事で、野口博士と母親の写真が印刷されていた。これまたどうかと思ったが、これはまだマシなほうだったようだ。後で見た別の車両は、写真どころか、野口博士の手紙とおぼしき文章を車体に印刷していた列車があった。しかも、印刷は窓にまでおよんでいる。それを見たときは、乗り合わせないでよかった、とつくづく思った。
ここからの区間は整理券方式のワンマン運転となる。会津田島の次の駅である田島高校前で高校生が乗ってきた。空席があるにも関わらず、一部の生徒は立ったり、床に座ったりしている。そして、そして、皆一心不乱に、下車駅に着くまで、携帯に向かって何かやっていた。
さて、気動車のほうは、阿賀川(別名大川・新潟県に入ると阿賀野川)に沿って雪原の中を進んでいく。途中、「塔のへつり」という駅があった。同名の天然記念物ともなっている奇岩が近くにあるとの事だが、駅から奇岩への道は雪で埋もれていた。他に「公園」がつく駅が二つほどあったが、これも同様だった。
そのうち、沿線の家の数が増えたと思ったら、列車は会津若松市に入り、会津鉄道の終点である西若松駅についた。当初の予定ではここで只見線に乗換える予定だった。しかし、乗り間違えにより逃してしまい、次の列車まで3時間ほどある。ここで待っても仕方なかろうと思い、会津若松駅まで乗り越すことにした。
とりあえず、清算した後に改札を出て観光案内所で地図を入手した。それを読もうと待合室に行ったら、ウイスキー缶を持った老人にからまれた。身なりはこざっぱりしており、喧嘩腰でもないのだが、もちろん嬉しいものではない。
場所を変えて観光地図を見る。とりあえず一番の名所は会津若松城(鶴ヶ城)のようだ。歩いて行って見物すればちょうど只見線の発車時刻くらいになる。
そこで、城を目指して歩き出した。どうやら、会津若松駅のあたりは、市の中心部から外れているようだ。そして、中央通りと思しき道を進むにつれ、建物が立派になり、市の中心部に着いた。さらにそのまま歩くと、城の堀が見え、会津若松城に到着した。
城の中は博物館になっていた。城の歴史に関する史料がいろいろ展示されていたが、やはり戊辰戦争がらみのものに重点が置かれていたように思えた。あと、愛媛の松山城を築いた大名が、会津若松城の再建を行った、という事には驚かされた。
また、その再建を完成させたのは、松山を築城した加藤嘉明の後継者である明成という大名だったそうだ。この博物館では、城を再建したが、その建設費用やお家騒動が原因で徳川幕府により会津を追われた、という紹介をされていた。文脈的には「城を再建した功績者だが、それゆえ幕府に狙われた被害者」という感じだった。
一方で、この明成という大名、歴史物語的には暗愚とされているようだ。特に、「柳生忍法帳」という小説では、悪の大魔王みたいな存在として描かれているらしい。それを知ったときは、人の評価はいろいろあるのだな、と思った。まあ、会津若松城の展示については、身びいきもあるのだろうが。
城の他に、敷地内にある茶室などを見た後、城の最寄り駅でもある西若松駅へ向かった。
4.只見線前半と玉梨温泉と湯葉しゃぶしゃぶ
西若松駅を17時過ぎに出た只見線は二両編成だった。西若松を出た時点では多くの高校生が乗っており、車内も賑やかだった。列車は夕暮れの会津盆地を走り、山間部に入る頃に日が暮れた。ここから只見川に沿って走るのだが、残念ながら闇しか見えなくなった。
一方、高校生は駅に着くたびに降りていく。途中の会津坂下(あいづばんげ)で中学生と思しき少年が何人か乗ってきたが、すぐに降り、乗客は二両合わせて一桁となった。
そして19時に会津川口駅に到着した。駅を降りると、予約していた玉梨温泉・恵比寿屋の送迎車が止まっていた。走っている間に、駅や宿のある金山町の事を教えてもらった。何でも町の面積は横浜市と同じくらいあるが、人口はその千分の一にも満たない2,300人ほどとの事だった。
宿に着いて、早速夕食となる。宿を取る際にサイトを見たら、特別料理として、「湯葉のしゃぶしゃぶ」なるものがあり、興味があったので予約しておいた。
しゃぶしゃぶと言っても、湯葉を鍋にくぐらせるわけではない。湯葉を豆乳につけた後、ポン酢で食べるというものだ。
湯葉自体を普通に食べても十分に美味い。ところが、この「しゃぶしゃぶ」で食べると、味が深くなり、さらに美味くなるから驚いた。これだけでもこの旅館に来た甲斐があったと思ったほどだった。
温泉は、ややぬるめの炭酸泉だった。自分的にはぬるい温泉に長時間入るのが好きなので、この温度は有難かった。しかも他の客がおらず、「貸し切り状態」だったので、のんびりすることができた。
露天風呂も併設されていたが、これはベランダに風呂をつけたというような感じだった。そこからは川が見えるのだが、護岸工事をされていたため、「渓流沿い」という感じではなかった。また、川の向こうに生えている木がライトアップされているのも、むしろ興ざめだった。もっとも、風呂の注意書きに「虫が入るから出たら明かりを消してください」などと書いてあったところを見ると、この「ライトアップ」は誘蛾灯なのかもしれないが。
それはともかく、一人で風呂につかったり、露天風呂から星を見たりしている時間は、大変有意義だった。
5.只見線後半と飯山線運休
翌朝、早くに宿を出て8時前に会津川口駅に着いた。慌ただしい行程であるが、この8時過ぎを逃すと、次の小出行きは15時半までないから仕方ない。これから乗る越後川口−只見間は、1日に三本しか列車がないのだ。
会津川口駅では双方向からともに二両編成で列車が来た。そしていずれからも高校生が降りてきた。そして、小出行きの列車に乗っていたのは筆者一人だった。
その「貸し切り」となった列車は、只見川に沿って雪原を走る。途中何カ所か踏切があったが、大半は道が除雪されず、踏切の標識も半分以上が雪に埋もれていた。その中に一つは、誰も来るわけがないのに、警報を鳴らしていた。
さらに、車窓の景色も豪雪地帯らしくなってきた。雪の重みで曲がり、ついにはてっぺんが地面についてしまった竹などもあった。これには雪の凄さはもちろんだが、そこまでなっても折れない竹の柔軟性にも驚かされた。
また、写真のように、枝に氷が付着し、白く光っている樹も少なからず見られた。
30分ほど貸し切り状態は続いたが、会津塩沢駅で二人の老人が乗ってきた。二駅先の只見でその二人は降りたが、入れ替わりに観光客とおぼしき人が五〜六名ほど乗ってきた。
只見の次は田子倉という臨時駅だが、冬季は閉鎖される。また、ときたま道を見かけたが、只見線と並行している国道252号線を除けば、除雪はされておらず、鉄橋が雪で埋もれたりしていた。この地帯は、雪の季節は鉄道と国道以外は全て雪に埋もれるのだろう。
列車は30分近く走り続け、その間に県境を越えて新潟県に入り、大白川駅に停車した。新潟に入ると、車窓に見える家の数が増えた。その中には、家の玄関から道までの間に、ビニールに覆われた「通路」を設置している家もあった。これがないと、玄関から道の間が雪で埋まってしまうのだろうか。
そのような家を見ているうちに、列車は魚沼川を渡り、小出駅に着いた。
次の列車までは小一時間待つので、川の向こうにある市街を散歩したりして時間をつぶす。何気なく入ったスーパーで、地元特産品の「魚沼コシヒカリ」と並んで「秋田小町」や「ひとめぼれ」が売られていたのが、なぜか印象に残った。
そして上越線の長岡行きに乗り、三つ向こうの越後川口で降りた。ここで1時間半ほど待って、飯山線に乗る予定となっていた。
改札を出ると、案内板が表示されていた。そこには、除雪作業のため、筆者がこれから乗ろうとしている列車が一部運休になる、と書かれていた。
次の列車は2時間半後だ。これに乗ると、途中で日が暮れる。さらにこの日の宿は、長野から私鉄で30分ほど行った後、バスで40分ほど行った所だ。終バスが早いので、次の列車で行くとなると、駅からタクシーを使わなくてはならない。
いっその事、飯山線を諦めようかとも思った。たとえば、上越線の長岡行きに乗り、信越線に乗換えて直江津経由で長野に行くという方法がある。距離的には飯山線よりかなり大回りになるが、本数や電化の関係で、当初の予定とほぼ変わらない時刻に長野に着くことができる。
まあ、どちらの経路にするにせよ、次の列車まで時間がある。そこで、結論を出す前に昼食を食べる事にした。駅から5分ほど歩いたところに蕎麦屋があった。どこにでもありそうな店だが、「へぎそば」の発祥地に近いだけあって、蕎麦の色は緑がかっていた。
再び駅に戻ってギリギリまで悩むが、「『除雪による運休』など、豪雪路線に乗るならあってもおかしくないことだ。飯山線に乗るのが目的の一つなのだから、初志貫徹しよう。」と思い、十日町行きの気動車に乗った。
6.十日町と飯山線
飯山線の越後川口発十日町行き(本来は戸狩野沢温泉行きだったが、除雪のため一部運休)はワンマンの単行だった。
晴れた雪原の中を、気動車は走る。そして、「次は終点・十日町」という車内放送が流れてしばらくすると、左側から1997年に開通した北越急行ほくほく線が合流してきた。橋桁の形などを見ると、新幹線のようだ。そのまま併走するように十日町駅に入ったが、地上の飯山線と、高架の北越急行の位置関係は、ちょうど在来線と新幹線の接続駅のような感じだった。
というわけで、次の列車までは2時間半ある。そこで、十日町観光をしようと思って駅前の地図を見た。「日本三大薬湯の一つ・松之山温泉」など興味深い所があったが、いずれも十日町駅からは離れている。そこで、駅から歩いて行ける唯一の観光資源である、十日町市博物館に行くことにした。
単なる時間つぶしのつもりだったが、これがなかなか面白かった。なんでも、縄文土器のなかで派手な形をしている「火焔形土器」がこの十日町で大量に発掘され、国宝に指定されているとの事だった。
その土器を中心に、縄文時代関係の展示が多い。一方で、この地方ならではの豪雪や信濃川についての展示もあった。それによると、この十日町市は「都市」としては世界有数の豪雪地帯とのことだった。何でも70年ほど前には、雪による屋根崩落で大量の死者を出した事もあったらしい。
それもあり、なぜ縄文時代の人が、こんな雪深いところに住んで、あのような複雑な形状の土器を作ったのだろうか、などといろいろ考えさせられた。
また、偶然だが、この日は博物館内で隣接している小学校の発表授業が行われていた。子供がいない身としては、こんなのを見る機会はまずない。そういう意味でも貴重な経験となった。
そして十日町駅に戻り、飯山線の長野行きに乗った。今度も単行のワンマンだ。十日町駅を出てしばらくは北越急行と併走する。しかし、向こうのほうはすぐに地下にもぐってしまった。別に山があるわけではないが、防雪や建設費の事を考えた結果、「地下鉄」になったのだろう。
さて、飯山線のほうだが、発車時には高校生が多く、立つ人もいたが、だんだんと空いていく、という夕方のローカル線の標準とも言える車内風景だった。
信濃川に沿って走るが、あまり水量は豊かではない。それについても、先ほどの博物館で「かつては大規模な洪水が起きるほどの水量だったが、大量のダム建設により減った」という記載を読んでいたので、意外には思わなかった。なんでも、三つの電力会社に加え、JR東日本の発電所がそれぞれ複数あるとのことだった。
そのため、ダムのある所だけは淵のようになっていて、それ以外は日本を代表する大河らしからぬ細い流れになっていた。
その信濃川を見ながら、一両の気動車は進んでいく。そして県境を越えて長野県に入り、森宮野原駅に到着した。なんでも、ここは1945年に7メートルを越す積雪があり、これは鉄道史上最高とのことで、記念碑(?)が建っていた。
長野県に入ると、信濃川は千曲川と名前を変えるが、雰囲気は特に変わらない。車内の客はかなり減ったが、駅によっては人が乗ってきたりする。その中で、上桑名川という駅では、ホームの雪かきをしている年配の女性がいた。足元を見ると、靴の下に「かんじき」がついていた。実物を見るのはこれが初めてで、改めてここが雪国だということを認識させられた。
そして日が暮れた頃、戸狩野沢温泉駅に着いた。ここで30分ほど停車する。ちょうど列車交換があったが、すれ違う越後川口行きは、ここで二両編成のうちの一両を切り離した。一方、駅前を見ていると、野沢温泉から満員のバスが到着した。これまで空いていた列車は、たちまち席が埋まる。
その一方で、先ほど切り離された一両は、一旦進んだ後、同じ線路にやってきて、増結作業が始まった。ところが、今まで乗っていた車両の連結器にはカバーがついたままだ。何かのミスかと思いながら見ていたが、連結直前になり、作業員が自然な動作でカバーを外した。これまた豪雪地帯ならではの事なのだな、と思った。
多数の観光客を新たに乗せた列車は、これまでと全く雰囲気が変わった。席につくやいなやノートパソコンをつけて作業を始めた人も何人か見受けられた。また、ビールを飲み出す人もいた。30分の停車の間に、ローカル列車が観光列車に「変身」した、という印象を受けた。
その乗車率を維持したまま、列車は長野駅に到着した。
7.山田温泉・山田牧場・七味温泉
長野駅で、長野電鉄に乗換えた。地下ホームに改札があるのだが、その前では、農産品が一袋百円で売られており、「購入は改札まで」と書かれていた。
ホームには、数年前まで東急田園都市線で走っていた車両が止まっていた。ロングシートが二色という特徴的な内装には懐かしさを感じた。
須坂駅に着いたが、目指す山田温泉行きのバスは終わっているので、タクシーに乗る。運転手さんは、温泉のある高山村のリンゴとブドウが一級品である事や、今年は雪が少ない事などを話してくれた。
泊ったのは平野屋というこぢんまりした旅館だった。料理も風呂も、値段相応という感じだった。あらかじめ分かっていたことではあるが、風呂の温度が高く、のんびり浸かる事ができなかった。
この山田温泉に泊った理由は、翌日、ここからさらに上にある山田牧場に行くためである。大学時代に寮があり、毎年夏に一週間そこで合宿をしていた懐かしの地を再訪したかったのだ。
というわけで、翌日、朝風呂に入った後、山田牧場行きのシャトルバスに乗る。
初めて山田牧場に行った1988年には、須坂駅から山田温泉を経由して山田牧場へ行く定期バスが三本あった。それが一本に減り、やがて山田温泉から上は廃止された。ところが、今回の旅行に際して調べたところ、山田温泉と山田牧場を結ぶこのシャトルバスが、冬季限定とはいえ一日五本ほど走っている。そして、かつての路線バス同様、沿道にある温泉にも停車するのだ。
スキー客対象とはいえ、彼らは自家用車で来るだろうに、と不思議に思いながら、旅館のすぐ目の前にあるバス停から乗車する。乗客は筆者一人だ。
発車して数分後、バスは「山田温泉スキー場」と書かれた標識に沿って曲がった。スキー場自体は、リフトもない小規模のものだ。ところが、バス亭にはスノーボードやスキーを抱えた人で行列ができていた。
これは、山田牧場から山田温泉に下る13kmに及ぶスキーツアーの利用者のようだ。山田牧場から下った後、このバスに乗って再び山田牧場に戻り、再度すべる。つまり、このバスはリフトのような役割をしているわけだ。これでバスは満員に。さらにスキー場で待機していたもう一台のバスにも人が乗っていた。
そして山を登っていくのだが、窓の外には雪がちらつきだした。そしてみるみるうちに強い振りとなっていった。そして、山田牧場のバス停を降りた時は、風上に顔を向けることができないほどの雪になっていた。
当初の予定では、山田牧場を散策した後、立ち寄りの温泉に入り、昼食を取って14時過ぎに出るバスで須坂まで戻るつもりだった。しかしこの雪では散策どころではない。とはいえ、せめて、大学の寮があった所には行こうと思った。
約15年半ぶりで、雪も降っているが、道は覚えていた。寮は分岐した道を下った終端にあた。その道を歩きながら、角を曲がると、向こうに動物の姿が見えた。一瞬、犬かと思ったが、それにしては大きい。よくよく見たら、ニホンカモシカだった。
向こうもこちらをじっと見ている。草食動物だからまず襲ってはこないだろうとは思った。ただ、万が一の事があったらと思い、引き返すことにした。先ほどの角を曲がる時に一度振り向いたら、相手も逆方向に歩いており、こっちを振り向いて見ていた。おそらく、考えている事は同じだったのだろう。
その後、近くに看板を出していた、立ち寄りの温泉に行こうとした。ところが、受付で「今日は雪で屋根が壊れて、風呂は工事中なんです」と言われた。相変らず強い雪のなか、別の立ち寄り湯を探す気力はなかった。そこで、食事だけすませて、一本早いバスで降りることにした。
昼食は、「見晴らし茶屋」というところで食べた。確か、学生時代、ここで牛乳を飲んだ覚えがある。店は広場からちょっと坂を登った所にある。その時は、店の中から放牧されている牛を見たように記憶している。しかし、降りしきる雪のため、この日は視界はほとんどなく、目の前の駐車場しか見ることができなかった。
そして一本早いバスに乗って山を下りる。山田牧場で温泉に入れなかったので、道沿いにある湯に入ることにした。途中にあるのは、七味温泉・五色温泉・松川渓谷温泉の三つだ。うち、五色温泉は学生時代に行った事があった。松川渓谷温泉は川沿いの大露天風呂が売りだ。一方、七味温泉は、名前の通り、源泉が七つあるとの事だった。どちらも興味があったが、結局、七味温泉にすることにした。
七味温泉には旅館が三軒あり、いずれも立ち寄りができるようだ。しかし、吹き付ける雪の中を歩くのも大変なので、特に何も考えず、一番近くにある紅葉館に入った。
受付で500円を払うと、立ち寄り客用の無料ロッカーに貴重品を入れるように案内される。細かい事だが、サービスがいいと思った。
そして風呂に入る。内湯は黒っぽい湯でそこそこ温度が高い。ただ、直前に泊った山田温泉で慣れていたため、さほど熱くは感じなかった。
こちらにしばらく浸かった後、外にある露天風呂に行く。こちらは緑色の湯だった。源泉が多い七味温泉ならでは、と言えるかもしれない。そして、この露天風呂が絶品だった。
旅館は川沿いの崖の上に建っている。そのため、立ち上がると、渓谷が見える。一昨日の宿とは違い、こちらは人工物が何もない渓谷だ。雪は相変らず激しく吹き付けているが、温泉に入っていると全然気にならない。
結局、内湯と露天をいったりきたりしながら、数十分過ごした。内湯には人がいたが、露天は貸し切り状態だった。
その広々とした環境で、渓谷および雪景色を十二分に堪能することができた。山田牧場で風呂に入れなかった時は残念に思ったものだったが、その代わりにここに入れたと思うと、むしろ良かったと思えたほどだった。
なお、この旅館には「洞窟風呂」や別館の野天風呂もあるそうだが、「洞窟風呂」は日中は女性用とのことで、別館は冬季営業休止だそうだった。いつになるか分からないが、今度は紅葉の季節にでも泊まりがけで再訪したいものだ、と思いながら、バスの時間が来たので、旅館を後にした。
8.長野電鉄と湯田中
さらに激しくなった雪のなか、シャトルバスは10分近く遅れてやってきた。そして山田温泉で路線バスに乗り換え、須坂駅に戻った。下るにつれ、雪の量は減っていったが、須坂駅でも太陽は出ていたものの、雪が降っていた。
ここで、再び長野電鉄に乗り、湯田中方面に向かった。乗ったのは元日比谷線の電車でワンマン運転だった。さらに信州中野駅で湯田中行きに乗換える。こちらも元日比谷線だが、信州中野−湯田中往復用ということで、運賃箱・整理券発行機・料金表がついていた。
かつて六本木や霞ヶ関を走っていた車両が、ワンマン改造されている姿を見るのは、ちょっとした感慨みたいなものだが。
途中、列車交換で停車する。向こうから来たのは、元小田急ロマンスカーだった。現在は「A特急ゆけむり」として、長野電鉄の看板的存在になっているようだ。
湯田中駅におりると、これまたすごい雪だった。駅から外を見ると、雪が真横に降っているのだ。まだ関東に帰れる時間だが、せっかくここまで来たのだから泊ろうかとも思った。しかし、駅構内の案内所で尋ねたところ、土曜という事もあり、かなり難しいとの事だった。そこで、温泉街を散歩するだけにした。
湯田中温泉の象徴は「大湯」という共同浴場だ。ただし、入れるのは宿泊客と地元の人のみとの事だった。なんでも、湯田中温泉の記録が最初に出るのは西暦600年代との事だった。当時からこの「大湯」の場所に温泉があったそうだ。
そういう事もあり、「共同浴場温泉番付」なるもので、この「大湯」は東の横綱となっている。ちなみに、西の横綱は道後温泉本館とのことだ。歴史的には聖徳太子が入ったという道後温泉のほうが伝統があるはずだ。しかし、ここでの「東西」は東日本・西日本のため、このようになっている。というわけで、「大湯」の正面には、その番付表が飾られていた。
※クリックすると、同じ窓で、大きい写真が開きます
実は筆者は、この週の月曜まで松山にいた。そして道後温泉本館の前も通ったのだが、その時もそこには入らなかった。そう考えると、一週間で「東西の横綱」を見て、しかも双方に入らなかったわけだ。
一週間で二つに入った人はいるだろうが、ともに見るだけで入らなかったのは、聖徳太子の時代から数えても筆者くらいしかいないのだろうか、などとアホな事を考えた。そして、それに自己満足し、湯田中の温泉街を後にした。
湯田中駅には「B特急・長野行き」が止まっていた。昨日から三回長野電鉄に乗ったが、すれ違いもふくめ、初めて見た長野電鉄オリジナルの車両だった。
「特急」といいながら、信州中野までは各駅停車だった。さらにそこから先も、無人駅に止まって、運転手が集改札をしたりしていた。どうやらワンマン運転のようだった。
こうして、長野に出た後は新幹線に乗り換えた。これで、短いながらいろいろな事があった旅が終了した。