四谷片町

2003/11/26

 小学校6年の時、港区に引っ越した。そのあたりは地下鉄の駅がなく、バスが移動の中心だった。その中に品川営業所管轄の品川車庫から四谷駅(虎ノ門経由と信濃町経由の2系統)というのがあり、生活の足としてよく利用した。車内ではよく路線図を見ていたが、その中で気になったのが「四谷片町(曙橋)」という終点のバス停だった。
 この四谷片町へは、四谷三丁目から分岐して行く形になっている。四谷三丁目という所は、新宿通りと外苑東通りの交差点となっていて、右へ曲がれば四谷へ、左へ曲がれば新宿に出る。そのようなターミナルに行かずに、なぜ地下鉄の駅である曙橋に行くのかが不思議だった。しかも、「曙橋駅行き」でなく、「四谷片町行き」である。
 その不思議なルートと、物寂しさを感じさせるバス停名は強く印象に残った。品川から四谷行き(信濃町経由)に乗って、四谷三丁目のバス停を通るたびに、「このあたりのどこかへ、四谷片町に行く道があるんだな、どれだろう」などと思ったものだった。

 そしてその年の夏休みの夕方、念願の四谷片町行きに乗ることができた。始発は品川車庫。つまり当時は、品川車庫から四谷に行くバスが3系統あったことになる。品川車庫を出ると、他の2本の四谷行きが品川駅高輪口に向かうのに対し、こちらは海に近い地域を品川駅東口に向かって進む。今でこそ新幹線の駅もでき、高層ビルが立ち並ぶ品川駅東口(港南口)だが、当時は目立った建物などなく、駅舎などはローカル駅の風情すらあった。すでに高層ホテルが林立していた高輪口とが「表口」だとしたら、こちらには「裏口」という印象が漂っていた。
 さらに運河などを見ながら田町駅東口に着く。さらに日の出桟橋・竹芝桟橋などといった、海沿いらしいバス停を通りながら浜松町駅と向かう。もちろん、今と違ってレインボーブリッジなどは見えない。浜松町から山手線の内側に入ると、沿線風景は「海辺」から「山の手」にガラっと変わる。そして東京タワーの建つ小高い丘を登り、タワーの入口近くに停車する。
 日中はすべてのバスがここで折り返す。しかし、朝夕のバスのみ、ここから四谷片町に向けて進むのだ。
 東京タワーを出て、虎ノ門五丁目の交差点を渡る。当時はソ連大使館が近くにあり、右翼暴力団体の街宣車対策として機動隊の車が常駐し、ものものしい雰囲気だった。そこを過ぎると、飯倉を通って六本木に出る。このあたりの沿線の賑わいを見ていると、ちょっと前まで殺風景な運河のあたりを走っていたのが信じられないくらいだ。さらに防衛庁(当時)・乃木坂のあたりの洒落た街並みを抜けて青山一丁目のツインビルのところに出る。
 ここからは、品川車庫で分かれた(?)四谷駅行き(信濃町経由)と合流する。沿線には東宮御所・神宮外苑・明治記念館などがあり、都心とは思えない静かなところだ。途中のバス停も「権田原」「左門町」などといった古めかしいものがある。そして信濃町駅を通って四谷三丁目の交差点に出る。
 いよいよ楽しみにしていた四谷片町の入口までやってきた。まず四谷三丁目の交差点は新宿通りを四谷方面に右折する。ここまでも四谷駅行きと同じだ。そして、次の角で左折し、四谷駅行きと別れた。片側一車線の緩い坂を下る。坂の途中に「津ノ守坂(つのかみざか)」というバス停があった。次はいよいよ終点の「四谷片町」だ。
 坂を下りきったら、幅の広い靖国通りに出た。。そしてそこを右に曲がったところに「四谷片町」のバス停があった。あまりにも普通な「大通りにあるバス停」である。勝手にうら寂しい所を想像していたので、拍子抜けしたが、冷静に考えれば地下鉄の曙橋駅前なのだから、このようなのが普通だろう。
 せっかくだから次の荒木町まで乗っていこうと思い、そのまま乗っていた。別に珍しくもないらしく、運転手は何も言わずにしばらく停まった後、バスを発車させた。緩い坂を登って再び外苑東通りに戻り、陸橋で靖国通りを渡るとそこは荒木町だった。

 なお、この路線のうち、東京タワーと四谷片町の間は、筆者が乗った翌年の1982年暮れに廃止されている。

参考資料1・浜95系統路線図都営バス資料館より)
参考資料2.津ノ守坂付近図東京私紀・Tokyonoteより)