小さい頃、母方の祖父母の家に遊びに行くとき、目黒から都営バスで港区の魚藍坂下というバス停まで行き、そこから歩いていた。目黒からのバスの行き先は「永代橋」と「東京駅南口」だった。子供心にも「東京駅行きのバスなんてすごいなあ」などと思った記憶がある。
そして1981年、小学六年になった時、祖父母の家と同じ敷地に引っ越した。それまで筆者が住んでいた所はどこも駅まで歩くのが移動の基本だった。しかしここでは最寄りの地下鉄の泉岳寺駅まで10分、国鉄(当時)の田町駅だと15分くらい歩く必要がある。
対して家の近くのバス停からは目黒・東京の他、品川・渋谷・四谷へ、さらに少し歩けば新橋や新宿行きのバスまで出ていた。必然的にバスが移動の基本という生活になった。
もともと乗り物が好きだったので、新たな移動の主役となった都営バスにも強い関心を示した。バスに乗るときはいつも運転席の真後ろに座り、前方の風景と路線図を見比べていた。都バスの全路線図が無料で配布されている事を知った時は即座にもらって部屋に飾り、以下毎年更新されるたびに最新版を入手していた。
さらに高校に入ってバス通学となり、都バスの全区間で利用できる定期を入手してからはバスに乗りまくる生活をするようになった。全路線完乗を目指し、バスだけ乗り継いで千葉県境や埼玉県境にまで行ったりもした。
しかしやはり一番思い入れがあったのは、日頃乗り親しんでいる魚藍坂下を通るバスであった。通学はもちろん、どこに出かける時も文字通り足代わりに愛用していた。上に挙げたような遠くのバスに乗りに行くときも行きと帰りには魚藍坂下発着のバスを使っていた。
その後引っ越したためバスとの縁は薄くなった。そして2000年になり、かつての地元に地下鉄の路線が二本新設・さらに一本が延長となった。筆者の実家の近くも二つの路線が離合する主要駅ができた。その地下鉄の早さ・便利さはそれまでのバスを使った時間の概念が完全に変化するほどであった。
そして必然的に周辺のバス路線は廃止・変更を余儀なくされた。2000年12月11日を最後に全廃となった目黒駅−東京駅南口行と半分が廃止になり別系統と統合された品川車庫−四谷駅(四谷見附)の二本は特に愛用していた路線である。お世話になったお礼を込めて、二つの路線の紹介と思い出を以下に書いてみる。
黒10系統 目黒駅−東京駅南口
もとは都電の5系統で目黒から永代橋に行っていた。都電廃止後は永代橋行きと東京駅南口行きとなったが永代橋行きは1970年代後半に廃止となっていた。
目黒から目黒通りを東に行き、白金自然植物園の前を通り、清正公(せいしょうこう)から桜田通りを通って魚藍坂下を左に曲がる。以下古川橋から古川に沿って一ノ橋・赤羽橋を経て芝園橋まで進み、そこで左折して芝公園に沿いながら東京タワーの麓を通り、西新橋(旧田村町)から内幸町で左手に日比谷公園を見ながら日比谷に出て旧江戸城のお濠に沿ってちょっと走り、馬場先門で右折して旧都庁前(現国際フォーラム)で左折して東京駅丸の内南口(中央郵便局前)が終点。
東京タワー・帝国ホテル・中央図書館・三菱銀行本店などといった有名な建物はもちろん、バンコック銀行などといった変わった建物も見ることができた。平日の午後は西新橋周辺はすごい渋滞だった。芝公園・日比谷公園といった大きな公園に沿って走るため、都心ながら緑も多い沿線だった。
姉妹系統みたいな感じで等々力操車場−東京駅南口行きがあり、目黒駅−魚藍坂下間と内幸町−東京駅南口間は同一区間を走り、赤羽橋−内幸町間も数百メートル離れた道をほぼ並走していた。こちらは健在。
四92系統 品川車庫−四谷駅(四谷見附)
こちらはかつての都電3系統である。品川車庫から四谷駅に行くのは二系統あり、かつて方向幕が小さかった頃は乗り間違いを防ぐためこちらは「四谷見附」と方向幕に表示されていた。表示幕が大きくなってからは「一ノ橋・四谷見附(四谷駅)」でもうひとつの四97系統は「天現寺橋・四谷駅」となっていた。
京急北品川駅近くにある品川車庫から品川駅に行き、そこから第一京浜を泉岳寺まで行く。泉岳寺で左折し、伊皿子坂を登り、さらに極めて急な魚藍坂を下る。ここの前方風景はとてもいい。そして魚藍坂下から黒10系統と同じルートで赤羽橋まで行き、そこから桜田通りに入って、神谷町駅・虎ノ門と進み、虎ノ門の交差点を左折する。霞ヶ関ビルを右手に見ながら溜池に行き、赤坂見附の手前では長い間放置されていたホテルニュージャパンの焼け跡を見ることもできた。そこからホテルニューオータニのところを左折し、ボートが浮かび緑も鮮やかな濠に沿って坂を登り、迎賓館を通って四谷見附、さらには四谷駅へと行っていた。
魚藍坂の急坂下りと赤坂見附−四谷見附間の坂が印象深い。高校時代は通学で毎日乗っていた路線でもある。
姉妹系統のほうは、古川橋でわかれて天現寺橋から広尾・西麻布を抜けて青山墓地に沿って走って青山一丁目に出る。さらに信濃町を通って四谷三丁目を右折して四谷駅に行っていたが、2000年12月12日より四谷三丁目を左折して新宿駅西口に行くようになった。
自分の中の一つの時代が終わったようにも思える路線の廃止・変更だった。いろいろな思い出をくれた路線たちには心よりお礼を言いたい。