最終回・大野隆と鷹嵐
「その5・6」に書いたように、筆者が鷹嵐で闘う根底の一つは「仮想空間の中で相撲を取る」であった。鷹嵐を使っている時の感覚は「ゲームをやっている」というよりも「相撲の稽古をしている」というふうに自分では認識していた。
HPに書いた「対戦日記」を振り返ってみても、「こんな難しい技を出せた」とか「こんな連携を出せた」という事よりも、「出足がどうだったか」「相撲らしく闘えたか」という事をを重視している。
(もちろん、これは高度な技や連携を出す技術がないゆえでもあるのだが。ただ最初から、技と連携に関しては、必要最小限のものさえ習得すればいいと思って稽古していたのも事実である)。
ある意味では画面の中のみならず、頭の中でも力士になりきっていた部分があったのだろう。
そして筆者の闘いにはもう一つ根底を流れるものがあった。それは「バーチャを勝負としてとらえる」という事である。
勝負という側面でバーチャをとらえるときにまず意識するのは、月並みながら「読み」である。もちろん、「ここで小手返しを出してくるだろうから、裏をかいて・・・」などというような高度な事ができるわけではない。
単に、「ここは中段を想定して立ちガードだろうから投げる」とか、「二回連続で下段蹴り起きしてきたから次は中段だろう」とかいう程度でも十分「読み」を楽しむ事ができる。
もう一つは「勝負の流れ」を読む楽しさである。有利な流れになっている時は、いかにその流れにさからわずに自然な勝利を目指すか、また、不利な時はどこで流れを変えるべく勝負に出るか、などといった事を意識して闘うと、逆転勝ちの時の嬉しさ・逆転負けの時の自己分析が、一層深くなるものだった。
話はずれるが、冒頭に書いたように、筆者の趣味は鷹嵐と同じく将棋である。したがって、勝負事を行う場合、自然に将棋と関連付けて考えるようになる。その視点でバーチャを見るのもまた興味深い事であった。
鷹嵐で闘った一年半は、筆者の人生の中でも相当重みのある時間であった。「私」では結婚という大転機があった。仕事のほうでも職場の構造について根本から考え直すような事にも遭遇した。
それら重要な事件に面しながら、余暇では常に鷹嵐で闘っていた。今後の人生で、その頃を振り替える機会は多々あるだろう。そして、その度に「鷹嵐」という存在も一緒に思い出す事だろう。
なんか、とりとめのない終わりかたになってしまったが、このへんで結びとする。最後に鷹嵐と鷹嵐を作ったセガの方、そして私と対戦してくれた延べで何千人にものぼる方々に改めてお礼を申し上げて結びとしたい。