鷹嵐雑話

実戦には役立たない鷹嵐の話

 VFの実戦には何の参考にならない、鷹嵐についてのどうでもいい話を集めたものです。
 筆者が97年の冬コミで発行した「鷹嵐・七つの謎」に加筆・修正をしたものも含まれています。

第1部 鷹嵐の設定の謎
その1・VFで最も高価なコスチュ−ム(97/07/17)
その2・謎の公式設定(97/08/05)
その3・なぜに関西弁(97/08/31)

第2部 鷹嵐の思い出
その4・一年前の「対戦日記」(97/09/05)
その5・筆者の相撲への思い(97/10/01)
その6・ゲームの世界で相撲を取り始めたころ(97/11/21)
その7・バーチャ2と厳龍(98/01/10)
その8・スポット21の思い出(98/03/07)

第3部 相撲と鷹嵐
番外編・実在した「タカアラシ」(98/01/25)
その9・tbにおける鷹嵐の「弱体化」について(98/04/06)
最終回・大野隆と鷹嵐(98/04/29)

はじめに・徹底比較、鷹嵐と筆者
鷹嵐(Taka-Arasi) 名前 大野隆(Takasi)
日本 出身 日本
1968.11.11(29歳) 誕生日 1969.5.22(28歳)
男・O型 性別・血液型 男・O型
将棋 趣味 将棋
元・力士 職業 団体職員
相撲 闘法 (VF内での)相撲

 

 

その1・VFで最も高価なコスチュ−ム

 VF1ではかなり簡素だったコスチュ−ムも、2・3となるにつれ、段々と個性的になっていった。 その中で最も高価なものは、というと圧倒的に鷹嵐の1Pバ−ジョンなのである。
 一見、シンプルなまわし一丁に見えるが、よく見ると、、前のところが垂れていて、意匠がほどこされている。
 実はあれは「化粧まわし」といって、戦闘用のものではなく、土俵入りなどで使う儀式用のものである。体を覆う面積は少ない(幾重にも巻くので、布の量は多い)が、値段は高く、百万円単位である。

 大相撲の場合、後援者が力士にプレゼントするので、力士本人の懐は痛まない。しかし角界を去り、単身で異種格闘の世界に飛び込んだ鷹嵐がなぜそんな高価なものを持ち、しかも戦闘用に使用しているのだろうか?
 もしかしたら、相撲界を去る際に他のものは一切捨てたが、この化粧まわしだけは何らかの強い思い入れのため手離せなかったのかもしれない。  いずれにせよ、これだけ高価なコスチュ−ムは、VFのみならず、格闘ゲ−ム全般を探しても鷹嵐くらいだろう。
※なお、本物の化粧まわしは鷹嵐のものより前掛け(?)の部分は広い。

 

 

その2・謎の公式設定

 VFに関する公式設定には不可解なものが多い。その中でも鷹嵐のそれは相当ひどい。
 まず、彼が角界を去った事件である。海外巡業中に、弟子(現役力士には弟子はいない。弟弟子のことか?)と飲み屋に行っていて、地元の裏格闘家とケンカになった、という設定からして不自然だ。
 確かに、最近でも飲み屋で暴れた横綱はいた。しかし、あれだってあくまでも「対物」である。さらに言えば、力士が物を壊しても事件になるのだ。ましてや人を傷付けたら大変な事になる。したがって相手がよほどの事をしない限り、力士はケンカなど買わない。
 また、ケンカを売る方も売る方だ。あんな見たこともない服と髪形の、百キロ以上の大男の集団にからむとは、よほどの命知らずとしか言いようがない。しかも、やっつけられたら「裏格闘の試合に出れば許す」というのも非常識だ。もちろん、それを真に受ける力士、というのも異常だ。
 この話だと、一定以上の地位を持つ力士であるはずの鷹嵐が、弟弟子が酒場でからまれたために、角界を去った、という事になってしまう。しかも、親方の慰留を固辞してだ。この設定で見る限りは、鷹嵐はさほど相撲界に愛着があったとは言い難い事になってしまう。

 さらにその後山の中で一人で稽古していた、というのも変だ。一体何をして収入を得ていたのだろうか? なお、キャラ選択画面の表では鷹嵐の「Job」は「スモウレスラー」だが、これは明らかに設定と矛盾する。
 そしてあっさり「世界格闘トーナメント」からの招待状をもらったらヒョイヒョイと出てしまうのだから理解に苦しむ。
 もしかしたら相撲協会に在籍していた頃から、もう相撲への情熱が冷め、異種格闘戦出場を熱望していたのかもしれない。もしそうならば、以上のような非常識な行動も説明できるのだが。

 

 

その3・なぜに関西弁

 鷹嵐のセリフは、短くて少ない。ぶちかましなどで使う「てやっ」と鬼殺しなどでつかう「どりゃー」といった掛け声と勝ちゼリフの「なめとるんかい」「このボケェ」くらいなものである。
 ただ、この短い勝ちゼリフは、鷹嵐の過去に関する重要な鍵を握っている。
 これらのセリフはいわゆる「関西弁」である。しかも、かなりどぎつい。葵の京言葉と対極をなしている。いったいなぜ鷹嵐はそのような言葉づかいなのだろうか?
 一番単純なのは、鷹嵐が関西出身である、という理由であろう。そりゃ関西人なら関西弁で話す。しかし、それだけでは説明しきれない。たとえば、東京出身の人が、格闘の試合をして勝った時に、「ふざけんじゃねえ」とか「馬鹿野郎!」などとは言う訳がない。そんな事を言うようでは格闘家ではない。チンピラやゴロツキである。
 もちろん、鷹嵐が力士としての心を捨て、一介のケンカ屋として、VF3の闘いにのぞむのであれば、それでも説明はつく。しかし、彼は髷を結ったままにするなど、力士としての心構えはを捨てていない部分が多々ある。どちらかと言えば、格闘家の中でも特に礼儀を重んじる「力士」としてVF3の闘いに身を投じている、という印象のほうが強い。
 特に、「なめとるんかい」の時のポーズは、本来は相撲に勝って懸賞金を受け取る時の「ごっつあんです」である。そのような慣れ親しんだポーズ・言葉の組み合わせがあったのに、違うガラの悪い言葉を言う、というのも理解不能だ。
 唯一、こじつけれる理由があるとすれば、「鷹嵐は相撲界から去ったあと、山村で稽古するかたわら、暴力団系の仕事で生計をたてたため、その言葉がうつってしまった」だろうか? いずれにせよ、あのガラの悪い勝ちゼリフはどうにかしてほしいものだ。

 

 

その4・一年前の「対戦日記」

 昨年の9月、筆者は毎日仕事が終わった後、新宿のさまざまなゲーセンを巡っていた。理由はもちろん、VF3をプレイするためである。
 新宿では、東口スポーツランドが比較的早く入荷していた。その後、西口スポーツランドも大量入荷。一方、スポット21はあまり入荷されていなかった。筆者は、とりあえず東口スポーツランドを主戦場とした。当時はメガロ410に二人並んで対戦する形。1プレイは200円・対戦でも2本先取だった。
 使用キャラはもちろん鷹嵐。雑誌に登場が発表された時点で決めていた。最初はどんな技が出せるかもわからず、そこそこ動けるようになるまでに相当の時間がかかった。どんな技が存在してどのように使えるかなどもすべて手探り。技名と出し方やその日の発見や反省ををノートにつけたりもした。当時の予算は一日2千円。しかし、それを守れた日はほとんどなかった。仕事が終わった後はもちろん、昼休みも新宿に出て稽古していた。
 当初は、「2」からのキャラのほうが圧倒的に強かった。まあコマンドなどが基本的には同じである以上、仕方ないと言えるだろう。鷹嵐使いなどはほとんどいないので、「優れた鷹嵐使いの動きを、見たり闘ったりして吸収する]という事もあまりできなかった。また、ゲーメストの記事なども書き手の文章力の問題もあり、あまり役には立たなかった。さらに加えて「プレイヤー同士の交流」とも縁がなかった。そして本HPでもさんざん書いている「相撲道へのこだわり」があったために、筆者の鷹嵐は我流極まりないものとなっていった。
 その後、主戦場は西口スポーツランドをへて、スポットに落ち着いたが、この「VFの世界で相撲を取る」という筆者の闘い方に変わりはなかった。それぞれの技は進歩したと思う(思いたい)が、根底に流れる考え方は1年前とさほど変わっていない。

 

 

その5・筆者の相撲への思い

 筆者は、中学校時代相撲にハマっていた。理由として、自分の名前である「隆」の字を持つ隆の里関(現・鳴戸親方)がいた事と、その時一番仲のよかった友人が相撲が好きだったことがある。
 当時の体重は55キロ前後だったが、「人を投げる」というのがなぜか得意で、70キロ台の同級生と相撲を取って勝ったこともあった。毎日休み時間は先述の友人と相撲を取り、「藤島部屋に見学に行きたい」などと話したりもしたものだった。一時期は太るために丼でご飯を食べたりもしたが、残念ながら効果はなく、力士になる夢は入り口に立つ事すらできなかった。
 取るのは無理でも、ファンとして楽しむことはできる。高校のころまで、毎場所十両以上の成績は全部つけていた。また、国技館の一番安い席の切符を買って昼過ぎに行き、幕下までの取り組みを砂かぶり(土俵に一番近い席・すいている時なら自由に座れる)で見たりしたものだった。
 しかし、隆の里以降に好きになった力士である北尾関と板井関が追われるような形で角界を去ったのがきっかけで、相撲への興味が薄れていった。そして「若貴ブーム」あたりではもう、どうでもよくなってしまっていた。大学を出るころには、相撲などは「10代のころは好きだったな」という程度のものでしかなかった。
 しかし、就職した1992年の夏、自分の中の相撲への思い入れは伏流となっていただけで、情熱は衰えていなかった事を知る。それは弟が見せてくれた、ストUのスーファミ版・すなわちエドモンド本田との出会いであった。

 

 

その6・ゲームの世界で相撲を取りはじめたころ

 就職した直後の92年の初夏だったか、弟がストUのスーファミソフトを見せてくれた。それまでできたゲームといえば、アーケードならテトリスとクイズ、コンシューマなら「キャプテン翼」のみ、というほどのゲーム音痴であった筆者である。それまでも弟に勧められたゲームはあったが、一週間もったことすらなかった。
 しかし、このゲームは違った。何しろ画面の中で相撲取りを動かして闘わせることができるのだ。10年前にあきらめた「相撲を取る」という夢が、画面の中でかなえられたのだ。もちろん、ストUがきわめて優れたゲームである、というのも理由の一端ではあるのだが。
 こうして、仕事から帰ってはストUをやるという生活が始まった。左手の親指の皮膚は固くなり、また一番使ったRボタンは相当ガタがきた。最初の頃、なかなかサガットに勝てず「お前は弱い!」という勝ちセリフに切れかかったり、ベガに勝つために50回以上コンティニューした、などという記憶は5年以上たった今でもよく覚えている。
 その後、自然な流れでゲーセンでの対戦を始めるようになる。もちろん使用キャラはE・本田のみ。「サブキャラ」というものが存在しないのは昔も今も変わらない。
 闘い方はもちろん攻めまくり。一番好きな技は「百烈張り手」だった。技術を力で打ち砕く、というのが好きだった。このへんの感覚はすでに今と同じである。そしてゲームをやりだしてから一年半くらいたって、ゲーセンに「バーチャファイター」が登場した。しかし、操作感覚が全然わからず、2回くらいしかやらなかった。
 その後、SNKのゲームも相当やったが(というよりは、ナコルルにハマった時期があったと言うべきか)、やはり基本は本田だった。また、「鉄拳」に力士が出たという情報は得ていたが、海パンをはいている、という理由で興味は持てなかった。
 しかし、やがて本田のいない「ストゼロ」が登場。ストUXは駆逐され、本田を使える場所が減ってしまった。かわりにハマったのは、「2」になってまわしをつけた力士・厳龍が登場した「鉄拳2」と、当時社会現象に近いブームを巻き起こしていた「バーチャ2.1」だった。

 

 

その7・バーチャ2と厳龍

 先述したように、「バーチャファイター」は敷居が高く感じたので敬遠していた。また、ポリゴンに対する苦手意識も手伝って、「海パンをはいた力士が出てくる」と話に聞いていた鉄拳もやらなかった。
 そして「バーチャ2」が登場。その画面の進化には驚いたものの、苦手意識が強く、手を出せずにいた。しかし、ある日サターンのVFをやってみる機会があった。やってみたら面白かったので、少しは苦手意識も減った。しかしその時はまだ、「同じポリゴンなら、2D感覚の操作性がある「闘神伝」のほうがいいな、と思ったくらいだった。
 その後、もう少し時が経った。そのうち地元のゲーセンにも「バーチャ2」の1P台が置かれるようになった。せっかくだからとやってみる。最初に選んだのはジェフリー。そしてとりあえずPを押しながら前進する、すると相手のラウは押されて後退してリングアウト勝ち。その時思った「こういう闘いなら相撲が取れる!」と。(余談だが、この闘い方は筆者の鷹嵐の闘い方の原点となってしまっている)。
 しかし所詮は初心者。どうしてもCPUパイには勝てない。そこでゲーセンでは挫折。ちょうどその頃、「VFリミックス」のおまけをつけたサターンが出たので購入。近々出る「2」を待ちながら、家でトーキックスプラの練習をしたものだった。
 そしてサターン版「2」がいよいよ発売された。早速買ってジェフリーで練習する。しかしそのうち、なかなか「初段」になれないこともあり、どうもジェフリーに違和感がを感じるようになってしまった。いくら体が大きくて突き押しの力があっても、やはり力士ではない、というのも理由のひとつだったのかもしれない。
 その後は、いろんなキャラを取っ替え引っ替えし、一番勝てたパイを使うことにする。少しずつ「初段」も取れるようになったので、勢いづいて地元ゲーセンで対戦デビュー。しかし、さすがに勝てなかった。
 そうこうしているうちに、すぐにパイにも限界を感じ出す。そこでまた色々なキャラで段位認定。その結果、ほとんど技も知らないのに「初段」が取れたジャッキーにすることにした。
 当時はまだ「初段」が最高だった。しかしジャッキーを使い出してしばらくして、いきなり「三段」を取る。これで「もう自分にはジャッキーしかいない」と思うようになった。サターンの段位も順調に更新。また、地元のゲーセンでもジャッキーで少しずつ勝てるようになっていった。

   一方その頃、「鉄拳2」の「タイムスイッチ」とやらで厳龍が使用可能になる。ポリゴンへの苦手意識もなくなり、まわしをつけている事もあり、こちらも使い始める。突っ張りで浮かせた相手にさらに空中で突っ張りを入れるのと、隙は大きいが当たれば大きい「極悪かまし」というぶちかましが好きだった。
 当時行きつけだった書店が、新宿西口の大ガード近くにあったこともあり、そこに行く途中の「プレイシティキャロット」でよく稽古したものだった。最初は「初心者向けイージーモード」の1P台から初め、やがてノーマル台に、そして対戦もはじめるようになった。しかし、やはり最高レベルな所で、しかもダイヤグラム的には不利だった(と思う)厳龍なだけにほとんど勝てない。
 一方のジャッキーでそこそこ勝てるようになった事もあり、「鉄拳2」はCPU戦中心になっていった。特にプレステ版が出て(筆者は厳龍を使うためにプレステを購入した)、余計そうなり、「厳龍は技を楽しみ、ジャッキーで対戦をする」という感じになっていった。

 

 

その8・スポット21の思い出

 閑話休題。さて、96年前半、筆者はジャッキーにハマっていた。出て一年以上経っていたにもかかわらず、VF2(2.1)は大人気。有名プレイヤーや大会が、一般マスコミに登場するほどだった。
 地元(東中野)での対戦でもそこそこ勝てるようになっていた筆者は、ある日「スポットで闘ってみよう」と思い立った。何度か見に行ったことはあったが、「自分のレベルでは・・・」と尻込みしていたのだ。しかし、勝てないまでも闘いになるのではないか、という自信がついてきたので、ある平日の午後(この時間なら少しレベルも低いかと思った)に行ってみたのだ。
 「バーチャファイターコーナー」に行くと、一番奥の台がでアキラがCPU戦をやっている。そこにジャッキーで乱入したのだが、いつもの対戦とは相当違う緊張感があった。3−1で負けたのだが、「負けた」というよりも「スポットで対戦して一本取れた」という喜びのほうがっ強かった。
 その後、だんだんとスポットでの対戦にも慣れ、「3」が出る直前は、一番よく行くゲーセンになっていた。その後、「3」が出た直後は、スポットは入荷などが出遅れたため、スポランなどを使っていたが、結局は一番熱い所になっていたので、10月くらいからはまたスポットに戻っていた。
 いわゆる「有名プレイヤー」とも何度か対戦できた(一度も勝てなかったが)。また、目標として「十人抜き」があったのだが、それはついに果たせなかった。10人抜きをかけて闘ったときのことはいまでもよく覚えている。もちろん、他にも思い出はいっぱいある。
 現在は、結婚やそれにともなう引越しのために新宿西口に行く機会もなくなり、したがってスポットにも行っていないのだが、筆者にとって一番思い入れのあるゲームキャラが鷹嵐であるのと同様に、筆者にとって一番思い入れのあったゲーセンはスポットだと言える。

 

 

番外編・実在した「タカアラシ」

 大相撲初場所12日目にちょっとした珍事があった。この日の午前中、両国国技館に行くために使われる総武線が事故によりダイヤが乱れた。(どうでもいいが、筆者も通勤でエラい目にあった)このため、早い時間に予定されていた取組にも影響が出た。
 この珍事はスポーツ新聞にも取り上げられた。当然ながら「電車のために遅れたが勝った力士」が取材の対象になる。そのため、本来の予定より13番後に相撲を取って勝った序二段の力士の名前が各紙に出た。
 そう、その力士の名こそが二子山部屋の
貴嵐(タカアラシ)
だったのだ。おそらく、彼としてもはじめての新聞の取材だっただろう。ちなみに彼のコメントは「こういうケースは電話すればいいと聞いていたので、何とかなると思っていた。でもホッとした」だった。
 確かに、二子山部屋には「貴」のつく力士が多い。しかし、そのものズバリの「貴嵐」が存在し、しかも「電車の遅れ」が理由で新聞に登場するとは驚かされた。ちなみに筆者は職場のスポーツ新聞でこの件を知り、驚いたあまりに帰りにキヨスクでスポーツ新聞を買って確認した。序二段力士の小記事のためにスポーツ新聞を買ったのは筆者くらいのものだろう。

 

 

その9・tbにおける鷹嵐の「弱体化」について

 はっきり言って、「VF3」と「tb」で筆者の勝率を比較すると、「VF3」のほうが断然高い。今でも、同じゲーセンで「VF3」と「tb」をやると、前者のほうが圧倒的に勝てる。しかしこれだけで「tb」で鷹嵐は弱くなった、とは言えない。
 なぜならば、筆者の稽古量は、97年10月を機に相当減ったからだ。その原因は別にVFや鷹嵐の壁にぶつかったわけではない。単に生活環境の変化による「鷹嵐に費やせる予算の削減」のためである。
 つまり、筆者の場合、「3」と「tb」では「習熟度」が違うのである。ゆえに、技術論として「3」と「tb」の鷹嵐の差を論じる事はできない。本稿では単に変更された設定において、「相撲らしさ」がどう変更されたか、について述べてみたい。

 tbにおける鷹嵐の最大の変更点は「転びやすくなった」であろう。技術的にはこれによって、あの「膝からジャイアントスイング(スプラッシュマウンテン)」がなくなった、というプラスの面も存在する。
 しかし、この変更点で「力士・鷹嵐」を評するとしたら、「足腰が衰えた」としか言いようがない。VFにおいては「ダウン」というものは闘いの中の一つの要素でしかないが、相撲においてのそれは「敗北」を意味するものである。
 つまり、tbになって「力士・鷹嵐」は明らかに弱くなってしまった、という結論に達せざるをえない。
 次に目立った変更点は、「ジャンプとダウン攻撃ができるようになった」であろう。これに関しては、「VFでの実戦」という観点で考えてもまったく意味はない。さらに「力士・鷹嵐」という観点で考えたら最悪である。飛んだり跳ねたりする力士など、「見苦しい」以外の何者でもない。
 さらに。細かい技を見てみる。弱体化された技と言えば、「上手投げ」「双差し」「四股」「鐘突き」あたりだろう。一方、強化された技を挙げると「斬撃」「蹴たぐり」といったあたりか。
 「双差し」と「四股」は本来の相撲での使われ方とは180度違った扱いを受けているが、とりあえずは相撲技とまったく同じ名前である。である。さらに「上手投げ」は鷹嵐の技の中では珍しく、名前・技の中身・使われ方が、相撲を生かしている。これらの相撲らしい技を弱体化した、というのは重大である。
 一方、強化された技の一つの「蹴たぐり」だが、これは確かに相撲の技であり決まり手にもなっている。また、VF上でも正しく再現されている。しかし、この技は小兵が使う奇襲技であり、大型力士の鷹嵐は絶対使わない。ましてや異種格闘で使うなど論外である。そのような技を強化されても「相撲らしさ」はより一層減退する。なお、「鐘突き」の弱体化と「斬撃」の強化に関しては、どちらも相撲らしからぬ無意味に大きなモーションの技であるので、相撲的観点からは「どっちもどっちで意味はない」という感じである。
 tbの変更で鷹嵐が強くなったか弱くなったかは、筆者の技量では断言できない。しかし、tb化にあたって「相撲らしさ」がより一層損なわれたのは明白な事実である。
 それにしても、中国拳法をちゃんと表現するためにわざわざ中国まで行ったのに、なぜ相撲の取材をじっくりできなかったのだろうか? どこかの相撲部屋の稽古を見学すれば、技の表現・力士の表現とも、もっと相撲らしくできたと思うのだが。

 

 

最終回・大野隆と鷹嵐

 「その5・6」に書いたように、筆者が鷹嵐で闘う根底の一つは「仮想空間の中で相撲を取る」であった。鷹嵐を使っている時の感覚は「ゲームをやっている」というよりも「相撲の稽古をしている」というふうに自分では認識していた。
 HPに書いた「対戦日記」を振り返ってみても、「こんな難しい技を出せた」とか「こんな連携を出せた」という事よりも、「出足がどうだったか」「相撲らしく闘えたか」という事をを重視している。
(もちろん、これは高度な技や連携を出す技術がないゆえでもあるのだが。ただ最初から、技と連携に関しては、必要最小限のものさえ習得すればいいと思って稽古していたのも事実である)。
 ある意味では画面の中のみならず、頭の中でも力士になりきっていた部分があったのだろう。

 そして筆者の闘いにはもう一つ根底を流れるものがあった。それは「バーチャを勝負としてとらえる」という事である。
 勝負という側面でバーチャをとらえるときにまず意識するのは、月並みながら「読み」である。もちろん、「ここで小手返しを出してくるだろうから、裏をかいて・・・」などというような高度な事ができるわけではない。
 単に、「ここは中段を想定して立ちガードだろうから投げる」とか、「二回連続で下段蹴り起きしてきたから次は中段だろう」とかいう程度でも十分「読み」を楽しむ事ができる。
 もう一つは「勝負の流れ」を読む楽しさである。有利な流れになっている時は、いかにその流れにさからわずに自然な勝利を目指すか、また、不利な時はどこで流れを変えるべく勝負に出るか、などといった事を意識して闘うと、逆転勝ちの時の嬉しさ・逆転負けの時の自己分析が、一層深くなるものだった。
 話はずれるが、冒頭に書いたように、筆者の趣味は鷹嵐と同じく将棋である。したがって、勝負事を行う場合、自然に将棋と関連付けて考えるようになる。その視点でバーチャを見るのもまた興味深い事であった。

 鷹嵐で闘った一年半は、筆者の人生の中でも相当重みのある時間であった。「私」では結婚という大転機があった。仕事のほうでも職場の構造について根本から考え直すような事にも遭遇した。
 それら重要な事件に面しながら、余暇では常に鷹嵐で闘っていた。今後の人生で、その頃を振り替える機会は多々あるだろう。そして、その度に「鷹嵐」という存在も一緒に思い出す事だろう。
 なんか、とりとめのない終わりかたになってしまったが、このへんで結びとする。最後に鷹嵐と鷹嵐を作ったセガの方、そして私と対戦してくれた延べで何千人にものぼる方々に改めてお礼を申し上げて結びとしたい。

 

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